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☆龍神に祈った新田義貞☆ |
由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞鎌倉攻めの際の古戦場。 義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍もはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたのだという。 |
☆茶店の絵図売り婆さん☆ |
稲村ヶ崎から極楽寺へと向かう道の曲がり角には、茶店があった。 この茶店には、鎌倉絵図を出し講釈をして、その絵図を十二文で売りつける婆さんがいたそうだ。 江ノ島からの遊覧客をつかまえるのに絶好の場所だったとみえて、3軒ほどの茶店があったらしい。 |
☆十一人塚の松☆ |
十一人塚には、塚を包むように大きな松が枝を広げていた。 おもしろいことに一本として枝が十文字に重なって見えなかった。 宗氏以下十一人が腹を十文字に切ったからだという。 |
☆弁慶腰掛の松☆ |
源義経は、平家を滅ぼした後、源頼朝の怒りに遭い鎌倉に入ることができず、腰越の満福寺から頼朝へ弁解のための書状(腰越状)を提出した。 結局許されなかったのだが、弁慶は、極楽寺奥の山にあった松の木にのぼって腰を掛け、鎌倉を睨みつけ無念の涙をこぼしたという。 |
☆北条時宗☆ |
極楽寺の奥には、馬術けいこのための馬場があった。 あるとき、北条時頼が宗尊親王(六代将軍)をつれて馬場にやってきたが、小笠懸(おがさがけ)では、だれも的を射とめることができなかった。 「だれか的を射れる者はいないのか」との親王の言葉に参加者は黙ってしまったが、時頼は11歳の子時宗に挑戦させ、時宗はその期待にこたえ、見事一発で的を射とめたという。 |
☆景政の武勇伝☆ |
鎌倉権五郎景政は、源義家に従い後三年の役に出陣し、目に矢をうけながらも勇敢に戦ったという。 味方に矢を抜いてもらうときも、矢を抜こうとした武士が、景政の顔に足をかけたため、「足で顔を踏むとは何事か!」と叱責したという。 景政の武勇伝により、御霊神社は「目の神様」として慕われている。 |
☆木造十一面観音像☆ |
長谷寺開山の徳道の願いによって、一本のクスノキから彫られた二体のうちの一体といわれている。 もう一体は奈良の長谷寺にある。 この観音像は、行基によって海に投げ入れられ、その後、長井浦(横須賀市)に流れ着いた像を鎌倉に遷座したとされている。 |
☆松下禅尼の倹約の教え☆ |
北条時頼が甘縄の館に訪れたとき、母の松下禅尼は、障子の切り張りをしていたという。 禅尼の兄安達義景が「全部張り替えた方が楽だろう。」というと、「私もそう思うが今日だけはわざとこうするのだ」と答えた。 障子の切り張りで、時頼に「倹約」を教えたのだった。 |
☆安達を助けた北条政子☆ |
二代将軍源頼家が安達景盛の愛妾を横取りするという事件が起こった。 景盛が不満に思っていることを知った頼家は、安達邸に攻め入ろうとするが、母の北条政子が安達邸に入り、頼家に、「景盛を討つなら、まず私を討て」という旨の使者を送って事件を納めたという。 |
☆謡曲「盛久」☆ |
平家の家人であった盛久は、源氏に敗れ捕らえられて鎌倉に送られてきた。 由比ヶ浜で斬首の刑と決まったが、盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け、処刑前夜に観世音の霊夢を見た。 すると、いざ処刑のとき、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまった。 これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢を見た。 観世音のお告げである」として助命し、盛久は所望されて舞を舞ったという。 主馬(しゅめ)とは、馬や馬具を管理する役職のこと。 |
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