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東慶寺の鐘楼に吊されている梵鐘は、材木座の補陀洛寺から移されたもので、1350年(観応元年)の鋳造(県文化財)。 鋳物師は物部光連。 総高143センチメートル、口径77.1センチメートル。 『新編相模国風土記稿』によると、分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられている(永安寺跡から掘り出されたものと伝えられる。)。 |
物部氏〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜 |
伊豆の国市の本立寺の梵鐘は、もともとは東慶寺にあったもの(1332年(元徳4年・元弘2年)の鋳造)。 大旦那は、九代執権北条貞時の側室で、十四代執権北条高時の母でもある覚海円成(安達泰家の娘)。 |
※ | 覚海円成が出た安達氏は、1285年(弘安8年)に起こった霜月騒動によって泰盛ら一族が滅ぼされたが、1293年(永仁元年)の平禅門の乱によって平頼綱が滅びると幕政に復帰した。 |
安達泰盛と平頼綱の対立〜霜月騒動〜(okadoのブログ) |
この梵鐘がいつごろ本立寺に移されたかは不明だが、鎌倉幕府滅亡後、覚海円成が伊豆韮山に移り住み北条氏の菩提を弔うため円成寺を建立していることから、そのときに梵鐘も移され、江戸中期に円成寺が焼失した後、同地の本立寺に移されたものと考えられる。 |
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本立寺は、徳川幕府に仕えた江川氏の菩提所。 江川氏は鎌倉時代から続く名家で源頼朝の挙兵にも参じた。五代執権北条時頼に酒を寄進して褒められているという。 |
東慶寺梵鐘と覚海円成〜伊豆の国市:本立寺の梵鐘〜(okadoのブログ) |
東慶寺の鐘楼 (雲龍の天井画) |
雪の東慶寺 |
東慶寺は、北条時宗の妻覚山尼が開いた。 かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所だった。 |
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