鎌倉手帳(寺社散策)

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朝夷奈切通
鎌倉七口

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朝比奈の滝
朝比奈の滝

 光触寺から金沢街道を金沢方面に行くと、左手に十二所神社が見え、その反対を滑川に沿って入ると、鎌倉七口(七切通)の一つ「朝夷奈切通」がある。鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ切通で、和田義盛の三男の朝比奈三郎義秀が一夜にして開いたとの伝承もあるが、実は三代執権北条泰時が開いた。六浦からの塩がこの道を通って鎌倉に運ばれた。

 仁治2年(1240年)11月、幕府において往還路を造ることを決定し、翌年4月5日着手された。
 泰時自らが工事を指揮したと伝えられている。難工事であったため、工事が進まず、泰時は自分の馬で土石を運び人夫を励ましたという。
 切通を整備する理由として、「塩の道」を造る必要があったことがあげられる。鎌倉の海は塩田にはむかなかったことから、六浦から塩を運搬する必要があった。また、材木座には、和賀江嶋も造られていたが、風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、その他の物資も六浦港に着くようになり、物資輸送路の確保が必要であった。
 重要な塩の道であったことを示すものとして、光触寺「塩嘗地蔵」の伝説も残っている。
 物資輸送の他には、鎌倉東部の守る城郭としての性格もあったと考えられている。切通は、鎌倉への出入口であるとともに外部からの攻撃に対する重要な防御拠点であった。


参考:鎌倉七口

鎌倉の古道:朝夷奈切通


伝説の塩嘗地蔵〜光触寺〜
(okadoのブログ)





☆伝説!朝比奈三郎義秀☆
 朝比奈三郎義秀は、鎌倉幕府初代侍所別当「和田義盛」の第三子で、生母は木曽義仲の妾巴御前であると伝えられている(参考:善栄寺(小田原))。
 義秀は大力武勇の猛者で、一夜にして朝比奈峠を切り開いたといわれた。ある日、笠懸の後、将軍源頼家から、「泳いでみよ。」と言われ、断るわけにもいかず海に入り、鮫を3匹捕まえてきたという。和田合戦においても幾人かの敵をたおし、微傷すら負わなかったという。しかし、和田義盛が敗れるとどこかに姿を隠した。安房に渡ったとか朝鮮に逃れたという説もある(参考:ユガ洞 琵琶橋)。





梶原太刀洗水
梶原太刀洗水

 朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。梶原景時上総介広常を討ったあと、この水で太刀の血を洗い流したという。
 詳しくは写真をクリック

 梶原太刀洗水〜鎌倉五名水〜(okadoのブログ)





上総広常の墓


☆上総介広常(平広常)☆
 上総介広常は、源頼朝石橋山の戦いで敗れ、安房国(源頼朝上陸地)に渡り体制を整えて鎌倉入りするときに2万騎の兵を引き連れて従った武将。しかし、頼朝に対する傲慢な態度がわざわいし、謀反の疑いをかけられ梶原景時に暗殺された。
 朝夷奈切通を越えていくと「上総介塔」と呼ばれている五輪塔がある。


源頼朝と上総介広常(okadoのブログ)

暗殺された上総介広常(okadoのブログ)

源頼朝のための願文・・・上総介広常(okadoのブログ)





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参考:鎌倉の古道散策

鎌倉の古道:朝夷奈切通







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