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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
(1) | 「天平五年」(733 年)と記された木簡が発見され,鎌倉郡衙が所在していたことが確認されるきっかけとなった遺跡はどこか。 |
1 台山藤源治遺跡 2 長谷小路周辺遺跡 3 今小路西遺跡 4 水道山戸ヶ崎遺跡 |
御成小学校周辺の発掘調査では、天平5年(733年)の木簡や鎌倉郡の役所である官衙(鎌倉郡衙)の跡が発見されています。 |
今小路 |
木簡 |
(2) | 源頼義が京都の石清水八幡を勧請して由比若宮(元八幡宮)を建立するきっかけとなった戦いは何か。 |
1 前九年合戦 3 後三年合戦 |
2 平将門の乱 4 平忠常の乱 |
由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年合戦(前九年の役)の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を勧請して創建されました。 |
(3) | 源頼朝に所望され,静御前が舞を舞ったのは鶴岡八幡宮のどこと伝えられているか。 |
1 若宮回廊 3 舞殿 |
2 参道 4 本殿 |
吉野山で愛する源義経と別れた後、捕えられて鎌倉へ送られてきた静御前は、1186年(文治2年) 4月8日、八幡大菩薩に献舞するということで説得され、鶴岡八幡宮の若宮回廊で舞いました。 鎌倉まつりの「静の舞」は、若宮回廊跡に建てられた舞殿で行われます。 |
北条政子を感動させた静の舞~梁塵を動かす歌と舞~ 母と子との悲しい運命~源義経の子を産んだ静御前~ |
金峯山寺 |
勝手神社 |
(4) | 基壇上部に,十六羅漢像の浮き彫りがあることから,別名「羅漢洞」とも呼ばれるやぐらは何か。 |
1 日月やぐら 3 朱垂木やぐら |
2 唐糸やぐら 4 明月院やぐら |
鎌倉最大のやぐらで、禅興寺を中興した上杉憲方の墓と伝えられている明月院やぐら。 |
(5) | 葛原岡神社北側の谷にある5つの穴からなる鎌倉時代のやぐら群を何というか。 |
1 百八やぐら 2 多宝寺址やぐら群 3 お塔やぐら 4 瓜ヶ谷やぐら群 |
葛原岡神社の北側にあるのは、瓜ヶ谷やぐら群。 地蔵菩薩像が安置されているものは、特に「地蔵やぐら」と呼ばれています。 |
(6) | 髪を「みずら」(古代人の男性の髪型)に結った男が,舟に乗り,楯を持ち,弓を射る様子を描いた線刻画がある横穴群はどこか。 |
1 山崎横穴群 2 稲村ヶ崎姥ヶ谷横穴群 3 洗馬谷戸横穴群 4 笹目谷横穴群 |
関谷の洗馬谷横穴群には、水上での舟の戦いが描かれています。 |
(7) | 源頼朝が二階堂に永福寺を創建したのは何のためか。 |
1 | 妻の母の供養のため |
2 | 奥州藤原氏や弟の鎮魂,慰霊のため |
3 | 父の供養のため |
4 | 元との戦いの戦死者の菩提を弔うため |
1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の寺院を模して建てられたという永福寺。 弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したのだと伝えられています。 1は北条泰時が建てた粟船御堂(常楽寺)。 3は源頼朝が建てた勝長寿院。 4は北条時宗が建てた円覚寺。 |
(8) | 室町時代の後半以降,鎌倉が東国の政治の中心としての役割を果たせなくなっていく直接の原因ともなったできごととして正しいのはどれか。 |
1 | 戦国大名の里見氏や上杉謙信と後北条氏との戦いに巻き込まれたこと。 |
2 | 鎌倉公方であった足利成氏が上杉氏に圧迫されて,下総の古河に拠点を移したこと。 |
3 | 新田義貞が鎌倉を攻略し,鎌倉幕府を滅ぼし,市街地を焼き払ったこと。 |
4 | 豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし,徳川家康にその領地を与えたこと。 |
1454年(享徳3年)に起こった享徳の乱で、鎌倉公方の足利成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになります。 成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることとなりました。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 |
(9) | 切通と所在地 |
1 | 朝夷奈切通-十二所~六浦 |
2 | 仮粧坂-源氏山~佐助稲荷神社 |
3 | 名越切通-大町~小坪 |
4 | 亀ヶ谷坂-山ノ内~扇ヶ谷 |
仮粧坂は扇ヶ谷から源氏山を上る坂。 |
(10) | 城址と関わりが深い人物 |
1 | 杉本城址-北畠顕家 |
2 | 住吉城址-三浦道寸(義同) |
3 | 天神山城址-源頼義 |
4 | 玉縄城址-北条早雲(伊勢宗瑞) |
天神山城址は北条早雲が築いた玉縄城の出城と考えられているようです。 |
杉本城址 |
住吉城址 |
歴史・旧跡について,次の文の〔 ① 〕,〔 ② 〕にあてはまるものの組み合わせとして最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(11) | 鎌倉が別荘地・保養地として全国的に知られるようになったのは,明治政府がドイツから招いた医学者〔 ① 〕が,鎌倉を最適な保養地として欧米に紹介したり, 日本の衛生行政の充実に貢献した医学者〔 ② 〕が海水浴場として理想的な海として推奨したりしたことがきっかけの一つとされる。 |
1 |
① ロベルト・コッホ ② 長井長義 |
2 |
① ロベルト・コッホ ② 長与専斎 |
3 |
① エルウィン・ベルツ ② 長井長義 |
4 |
① エルウィン・ベルツ ② 長与専斎 |
エルウィン・ベルツは結核の保養地として最適と紹介し、長与専斎は海水浴に適していると紹介しました。 ロベルト・コッホは、弟子の北里柴三郎とともに霊山山を訪れ、その記念碑が稲村ヶ崎に建てられています。 長井長義は、日本薬学の基礎を築いた人物で東漸寺に記念碑が建てられています。 |
(12) | 鎌倉十井の一つ,扇ヶ谷の海蔵寺の門前にある底脱ノ井の名の由来の一説では, 鎌倉時代の武将で幕府の重臣だった〔 ① 〕の娘が水を汲もうとした桶の底が抜け, 〔 ② 〕と詠んだ和歌によるといわれる。 |
1 | |
① | 安達泰盛 |
② | 「賤の女がいただく桶の底脱けてひた身にかかる有明の月」 |
2 | |
① | 安達泰盛 |
② | 「千代能がいだたく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ(ず)」 |
3 | |
① | 三浦泰村 |
② | 「賤の女がいただく桶の底脱けてひた身にかかる有明の月」 |
4 | |
① | 三浦泰村 |
② | 「千代能がいだたく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ(ず)」 |
海蔵寺門前の底脱ノ井は、安達泰盛の娘(千代能)が水を汲んだところ、桶の底が抜け、「千代能がいだく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」と詠んだことからこの名が付いたのだといいます。 「賤の女がいただく桶の底ぬけてひた身にかかる有明の月」は、上杉家の尼が詠んだものと伝えられています。 |
歴史・旧跡について,次の説明文の〔 〕に最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
鎌倉時代の鎌倉の歴史は戦乱の歴史といえる。 源頼朝が53歳で亡くなると,北条氏と有力御家人の間で争いが起こる。 1200年(正治2),〔 (13) 〕が結城朝光を讒言して逆に弾劾にあい失脚し,駿河で討たれた。 源頼家が2代将軍になると,北条時政が頼家の舅である〔 (14) 〕の影響力が増すことを恐れて〔 (14) 〕を暗殺,一族を滅ぼした。 次いで, 時政は1205 年(元久2)に〔 (15) 〕とその一族を滅ぼし,自身の縁者平賀朝雅を将軍にしようとしたため,北条義時・政子などの反感を買い失脚した。 執権となった義時は,下馬から由比ヶ浜辺りの激戦で侍所別当の〔 (16) 〕を破り,一族を滅亡させた。 さらに,5代執権〔 (17) 〕は宝治合戦で三浦泰村と一族を滅ぼし,北条執権政治を盤石にした。 敗れた三浦泰村と一族は源頼朝の墓のある〔 (18) 〕跡あたりで自害した。 9代執権北条貞時のときには,〔 (19) 〕騒動で内管領平頼綱が最後に残った有力御家人〔 (20) 〕 を破った。 |
(13) | |
1 相馬師常 3 梶原景時 |
2 染屋時忠 4 三浦義明 |
(14) | |
1 上総介広常 3 千葉常胤 |
2 比企能員 4 梶原景季 |
(15) | |
1 畠山重忠 3 比企能本 |
2 三浦義村 4 和田義秀 |
(16) | |
1 大江広元 3 三善康信 |
2 佐々木盛綱 4 和田義盛 |
(17) | |
1 北条長時 3 北条経時 |
2 北条時頼 4 北条政村 |
(18) | |
1 勝長寿院 3 法華堂 |
2 東勝寺 4 永福寺 |
(19) | |
1 霜月 3 神無月 |
2 宮 4 御家 |
(20) | |
1 足立遠元 3 安達景盛 |
2 安達盛長 4 安達泰盛 |
(13) 3 (14) 2 (15) 1 (16) 4 (17) 2 (18) 3 (19) 1 (20) 4 |
自然・景観の問題 |
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