1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1191年(建久2年)から源義経と藤原氏の鎮魂のため永福寺の建立にとりかかります。 翌年には、苑池と中堂の二階堂が完成します。 中堂は「二階堂」と呼ばれ、奥州平泉の中尊寺・大長寿院を模したものでした。 |
中尊寺 (岩手県平泉町) |
大長寿院 (岩手県平泉町) |
1193年(建久4年)には阿弥陀堂、1194年(建久5年)には薬師堂が建立され、 本堂の両側に脇堂のある形が整えられました。 永福寺の三堂は、二階堂を中心に、北に薬師堂、南に阿弥陀堂が建てられ、それぞれが廊で結ばれ、薬師堂と阿弥陀堂の外側には、翼廊が付けられていました。 そして、三堂の前面には苑池が設けられ、二階堂前には長い橋が架けられていました。 浄土教式苑池の寺院建築としては最大級のものだったそうです。 1200年(正治2年)に釣殿、1202年(建仁2年)に多宝塔、1216年(建保4年)に塔が建立されたと伝えられていますが、1405(応永12年)の炎上以後衰え廃絶しました。 |
苑池の景観は、宇治平等院の鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。 |
参考までに、奥州平泉の無量光院は、毛越寺に対して新御堂と称され、藤原秀衡が平等院を模して建立した寺院でした。 奥州征伐の際に頼朝はこれらの寺院も訪れています。 |
毛越寺 (岩手県平泉町) |
無量光院跡 (岩手県平泉町) |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 |
『吾妻鏡』によると・・・ 永福寺建設の様子を見に出かけた源頼朝は、働いている人夫の中に片目を失った男を発見。 捕えさせて調べると、ふところには刀をしのばせ、失明したような左の眼には魚の鱗をはめ込み盲目を装っていました。 上総五郎兵尉忠光と名乗り、頼朝の命を狙っていたことを白状したため処刑されたのだといいます。 |
源頼朝暗殺計画〜上総五郎兵尉忠光〜 |
苑池の造営で大活躍したのが畠山重忠。 『吾妻鏡』によると、苑池に立石を置く際、重忠は約3メートルの巨石を一人で運んで立て置き、見ているものは皆、その怪力に驚いたのだといいます。 頼朝が静玄に命じて庭石の配置を直させたときに、石を動かしたのは畠山重忠、佐貫広綱、大井実春の三人。 百人力の働きをみせた三人に、頼朝は感心したのだとか。 |
源頼朝の永福寺建立と怪力で活躍した畠山重忠 |
北条時政が奥州征伐の戦勝を祈願して創建したという伊豆の国市の願成就院。 時政・義時・泰時の三代にわたって整備され、その伽藍は、平泉の毛越寺を模した構成だったのだといいます。 |
2019年(平成31年)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された中尊寺ハス。 2021年(令和3年)から永福寺跡に置かれています。 |
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