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頬焼阿弥陀縁起
〜鎌倉:光触寺〜

編集:yoritomo-japan.com








頬焼阿弥陀縁起


 『頬焼阿弥陀縁起』二巻(国重文)は、比企ヶ谷にあった岩蔵寺の阿弥陀如来像の霊験を描いた伝説の絵巻物。

 その阿弥陀如来像が現在の光触寺の本尊だと伝えられ、「頬焼阿弥陀」と呼ばれている。

 縁起によると、1215年(建保3年)に鎌倉へ下向した運慶が、町局(まちのつぼね)の依頼で彫ったのだという。

 『新編鎌倉志』によると、縁起二巻の筆者は藤原為相、絵は土佐光興。

 下巻奥書には、僧の靖厳が所持していたが、光触寺に伝説の阿弥陀像が安置されていることを知って、1355年(文和4年)に寄進したことが記されているらしい。


頬焼阿弥陀縁起





〜鎌倉と運慶〜

 『吾妻鏡』によると、1215年(建保3年)12月16日、北条義時は、伊豆国の願成就院に建てられた南新御堂の本尊阿弥陀如来像と四天王像の開眼供養を行っている。

 ここに運慶の名はないが、これらの像は、義時の願によって新造中だったのだという。

 翌1216年(建保4年)正月17日には、源実朝の持仏堂の本尊だった運慶作の釈迦像が京都から届けられている。

 この頃の運慶は、称名寺大威徳明王大倉薬師堂の薬師如来、勝長寿院の五大尊像を手掛けている。









〜頬焼阿弥陀の伝説〜

 仏師運慶は、町局(まちのつぼね)に招かれ「阿弥陀如来像」の製作を依頼された。

 そして、完成した像に町局は喜び日夜供養を怠らなかった。

 そんなある日、局の家のものがなくなった。

 仕えていた万歳法師を犯人だと考えた局は、家人に命じて法師の頬に焼印を押すように命じる。

 しかし、法師の頬には焼印の跡がつかなかった。

 その晩、局の夢の中に阿弥陀如来が現れて「何故私の顔に焼印を押すのか」と云った。

 次の朝、局が阿弥陀如来像を見ると、頬には焼印の跡があったのだという。

 局は阿弥陀如来が法師の身代わりになったのだと悟り、阿弥陀如来像を修復しようとするが頬の焼印は消えなかった。

 (※法師も阿弥陀如来を信心していたという。)

 その後、局は比企ヶ谷に岩蔵寺を建て、この阿弥陀如来像を本尊として祀り、手を合わせながら往生したと伝えられている。

 法師も、さらに信心を重ね大往生したという。



頬焼阿弥陀


 上記の伝説は、鎌倉時代の仏教説話集の『沙石集』にも描かれている。








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光触寺
リンクボタン光触寺

 光触寺は、朝比奈峠の出入口にある時宗の寺。
 「頬焼阿弥陀」「塩嘗地蔵」の伝説が残された寺として知られている。


鎌倉市十二所793
0467(22)6864

鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス
「十二所」下車徒歩2分



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