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公家の出身で、源頼朝・頼家・実朝3代に仕え、政所(はじめ公文所)の初代別当としてその政治を補佐した人物はだれか。 (第3回鎌倉検定試験2級) |
1 三善康信 3 平賀朝雅 |
2 大江広元 4 九条兼実 |
三善康信は「問注所」の執事。 出家後は善信と名乗っています。 康信の母は源頼朝の乳母の妹であったので、頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていたときも都の情勢を定期的に伝えていました。 平賀朝雅は新羅三郎義光の血を引く源氏で、畠山重忠の乱のきっかけを作った人物です。 牧の方の陰謀が発覚後、京都で殺害されています。 九条兼実は藤原五摂家の九条家の祖。 頼朝の信頼を得て摂政関白にまで上り詰め、頼朝の征夷大将軍任官にも努力しました。 大江広元は公文所、政所の別当となり、頼朝の右腕として活躍します。 |
公文所・政所別当をつとめた[ @ ]は、その兄弟で、相模国の武士に育てられた[ A ]が源頼朝に仕えた縁で、源頼朝に招致され、出仕することになった。 (第6回鎌倉検定試験1級) |
建久の頃、源頼朝に山城国和束の反乱を鎮めるよう命じられた中原親能は、石山寺で祈願。 すると毘沙門天が現れ、その加護によって反乱を鎮圧できたのだといいます。 親能は、その恩に報いるため、石山寺に勝南院を建立したのだそうです。 |
亀谷禅尼は中原親能の妻。 源頼朝の次女三幡の乳母を務めました。 剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立し、本尊の大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだといいます。 石山寺の頼朝寄進と伝えられる多宝塔の傍らには、頼朝と亀谷禅尼の宝篋印塔があります。 |
墓及び供養塔について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 (第10回鎌倉検定試験2級) |
1 | 大江広元墓とされるのは,西御門にある源頼朝墓の東側山腹にある三つのやぐらの中央, 及び明王院裏山の層塔である。 |
2 | 極楽寺開山忍性の墓とされるのは,奥ノ院にある高さ約 3.9 mの宝篋印塔である。 |
3 | 上杉憲方墓とされるのは,極楽寺坂沿いの民家裏に残る七層塔と明月院やぐらの宝篋印塔である。 |
4 | 北条政子墓とされるのは,壽福寺の裏山に源実朝墓と隣り合って並ぶ五輪塔と,安養院本堂裏手の二基の宝篋印塔のうち小さい方である。 |
極楽寺の忍性の墓は宝篋印塔ではなく五輪塔。 |
源義経は兄頼朝に鎌倉入りを拒絶されると,その手前まで来て〔 @ 〕寺に留まり, 頼朝の怒りを解こうとしたが許されず,大江広元に力添えを頼む書状を出した。この書状が〔 A 〕である。 (第12回鎌倉検定試験1級) |
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、兄頼朝はそれを許しませんでした 腰越の満福寺での逗留を余儀なくされた義経が、頼朝の許しを得るために大江広元宛に出した手紙が「腰越状」です。 |
受験申込み等の詳細は 鎌倉商工会議所ホームページで。 |
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