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次の鎌倉幕府の有力御家人とその滅んだ場所の組み合わせで正しくないものはどれか。 (第7回鎌倉検定試験1級) |
1 和田義盛・・・由比ヶ浜 2 比企能員・・・常盤 3 梶原景時・・・駿河清見関 4 三浦泰村・・・法華堂 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 〜有力御家人と終焉の地〜 (第9回鎌倉検定試験2級) |
1 | 梶原景時−駿河国清見関 |
2 | 比企能員−名越・北条時政邸 |
3 | 畠山重忠−武蔵国二俣川 |
4 | 和田義盛−七里ヶ浜 |
梶原景時は、1199年(正治元年)、結城朝光を讒言したことで鎌倉を追放され、翌年正月20日に上洛途上の駿河国清見関で討死しました(梶原景時の変)。 比企能員は、1203年(建仁3年)、北条時政の名越亭で天野遠景と仁田忠常に暗殺されました(比企能員の変)。 畠山重忠は、1205年(元久2年)6月22日、稲毛重成の虚偽報告を受けて菅谷館から鎌倉へ向かう途中の武蔵国二俣川で北条義時らに討たれました(畠山重忠の乱)。 和田義盛は、1213年(建暦3年)5月2日、北条義時打倒の兵を挙げますが、翌日、由比ヶ浜で最期を遂げました(和田合戦)。 三浦泰村は、1247年(宝治元年)6月5日、源頼朝の法華堂で自刃しました(宝治合戦)。 |
源実朝が征夷大将軍の時に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。 (第7回鎌倉検定試験2級) |
1 比企能員・梶原景時 2 和田義盛・比企能員 3 比企能員・畠山重忠 4 和田義盛・畠山重忠 |
源実朝が将軍だったのは1203年(建仁3年)9月〜1219年(建保7年)正月まで。 この間に起こったのは、1205年(元久2年)の畠山重忠の乱と、1213年(建暦3年)の和田合戦。 |
次の武士を滅んだ時期が古い順に並べたとき,3番目と6番目になるものを記号で答えなさい。 (第13回鎌倉検定試験1級) |
ア 源範頼 イ 梶原景時 ウ 和田義盛 エ 比企能員 オ 源義経 カ 三浦泰村 キ 畠山重忠 ク 源頼家 |
源義経は、1189年(文治5年)閏4月30日、平泉の衣川館で自刃。 源範頼は、1193年(建久4年)8月17日、伊豆修禅寺に流された後、誅殺されたのだと伝えられています。 梶原景時は、1200年(正治2年)正月20日、上洛途上の駿河国清見関付近で討死。 比企能員は、1203年(建仁3年)9月2日に暗殺。 源頼家は、1204年(元久元年)7月18日、伊豆修禅寺で暗殺。 畠山重忠は、1205年(元久2年)6月22日、武蔵国二俣川で討死。 和田義盛は、1213年(建暦3年)5月3日、由比ヶ浜で討死。 三浦泰村は、1247年(宝治元年)6月5日、源頼朝の法華堂で自刃。 |
受験申込み等の詳細は 鎌倉商工会議所ホームページで。 |
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