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光了寺(こうりょうじ)は、下総国下河辺荘高柳(現在の久喜市)にあった天台宗の高柳寺を前身とする寺院。 建保年間(1213年 – 1218年)、当時の住持が親鸞に帰依して浄土真宗光了寺と改められ、その後、各地を転々とした後、現在地に落ち着いたのだという。 |
「祖師聖人」とは、浄土真宗開祖の親鸞のこと。 親鸞は1214年(建保2年)頃から約20年間にわたって東国で布教を行ったといわれる。 「静女」とは、京の白拍子で源義経の妾だった静御前のこと。 光了寺の前身高柳寺は、奥州平泉へと向かう途中の静御前が葬られたと伝えられている寺。 静御前の伝承によると・・・ 1189年(文治5年)、源義経が身を寄せている平泉への旅に発った静は、下総国まで辿り着くが、義経の悲報を聞かされ、伊坂の地で病となり息を引き取ったのだという。 静が養生していたと伝わる久喜市の経蔵院には、静の持仏とされる地蔵菩薩像が伝えられている。 |
光了寺の本尊・阿弥陀如来は第三代天台座主の慈覚大師円仁の作とされ、静の守り本尊だったと伝えられている。 |
『義経記』によると・・・ 1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせたが、99人までが舞っても雨は降らなかった。 ところが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだという。 光了寺の「静女蛙蟆竜舞衣」は、雨乞いの舞の際に後白河法皇から拝領したものと伝えられている。 1800年(寛政12年)には、老中の松平定信が収納箱を寄進しているらしい。 光了寺には、義経が静に与えた形見の短刀や、義経が平泉へと下る際に寺に預けたという鐙も残されている。 |
神泉苑は、平安京の大内裏に接して造営された庭園。 雨乞いの霊場として知られ、池に架けられた法成橋は静と義経が出会った橋とも・・・ |
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静終焉の地(下総国下河辺荘伊坂:現在の久喜市)にある静御前の墓。 |
静御前の墓に植えられている静桜は、静が義経の菩提を弔うために植えた桜が名の起こりと伝えられる。 |
光了寺に隣接する鶴峯八幡宮は、1180年(治承4年)の富士川の戦い後、神徳を感じた源頼朝が鶴岡八幡宮を勧請して創建したのだという。 富士川の戦いでは、頼朝と義経が涙の対面を果たしている。 |
茨城県古河市中田1334 JR宇都宮線・東武鉄道日光線 「栗橋駅」から徒歩35分 JR宇都宮線 「古河駅」から徒歩70分 |
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