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静御前は、源義経に気に入られて妾となった京の白拍子。 1185年(文治元年)、義経が兄源頼朝の不興を買って都落ちしたときも行動を共にしていたが、逃亡途中の吉野山で別れることに。 『吾妻鏡』によると・・・ 義経と別れた後、捕えられて鎌倉に送られた静は、1186年(文治2年)4月8日、頼朝の命により鶴岡八幡宮で舞を奉納。 義経を慕う舞に頼朝は激怒するが、北条政子を感動させる素晴らしい舞だったのだとか。 閏7月29日、静は鎌倉で義経の子を出産するが、生まれた子は男子だったため殺され、9月16日、傷心のまま鎌倉を離れて京へ向かったのだという。 一方、吉野山で別れた義経は、1187年(文治3年)、奥州平泉の藤沢秀衡のもとに辿り着いている。 鎌倉を去った後の静の行方は不明だが、各地に静御前伝説が残されている。 その一つが下総国下河辺荘伊坂(現在の久喜市栗橋)。 伝承によると・・・ 静は義経のいる平泉へと向かうが、1189年(文治5年)閏4月30日、義経は平泉の衣川館で自刃。 伊坂の地で義経の死を知って病気となった静は、9月15日に亡くなり、侍女の琴柱(ことじ)によって高柳寺に埋葬され、墓上には杉の木が植えられたのだという。 静御前の命日と伝えられる9月15日には、毎年、静御前遺跡保存会による墓前祭が営まれている。 |
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経蔵院の本尊は、静の侍女・琴柱が京都の嵯峨野から持ち帰った静の持仏なのだという。 光了寺は、静が葬られたという高柳寺を前身とする寺院。 静御前の墓や経蔵院と光了寺がある地は利根川で二つに分かれているが、江戸幕府が河道改修を行う前は地続きの土地だった。 |
静御前の塚 |
埼玉県庁が明治初期に行った地誌調査でまとめた『武蔵国郡村誌』によると・・・ 静御前の墓の印として植えられた杉は1846年(弘化3年)の利根川の洪水によって枯れ死。 調査当時は、円形の塚があり、1803年(享和3年)の「静女之墳」の碑と、1804年(文化元年)の「奈良坐泉の句碑」が建てられていたらしい。 |
この写真は、1928年(昭和3年)刊行の「埼玉県名勝史跡写真帖」に掲載されたもの。 静の埋葬地に植えられた杉は「伊坂の一本杉」と呼ばれ、その下には1259年(正元元年)の銘のある板石塔婆(板碑)が置かれていたのだという。 「静女之墳」の碑は、1803年(享和3年)、関東郡代だった中川忠英が静御前の墓碑がないことを哀れんで建てたもの。 |
現在の碑は2001年(平成13年)に新造されたレプリカ。 中川忠英の建てた碑は、左手前の覆屋に保管されている。 |
「舞う蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」 坐泉は伊坂出身の俳人。 句碑は、1806年(文化3年)に村人によって建立されたもの。 |
静御前伝説と 中川忠英と松平定信 |
「静女之墳」の碑を建立した中川忠秀は、老中松平定信の腹心。 関東郡代となった忠秀は、1797年(寛政9年)と1799年(寛政11年)に栗橋の地を視察しているのだという。 その際、静御前の墓と伝承されている塚や、静御前が葬られた高柳寺を前身とする光了寺(古河市)の存在を知り、松平定信にも報告したものと考えられている。 光了寺には静御前の「蛙蟆竜舞衣」が遺品として伝えられているが、定信は1800年(寛政12年)、その収納箱を寄進したのだとか。 |
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな 鶴岡八幡宮での静の舞は、参列した者のほとんどが心を動かされたのだという。 |
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鎌倉で静が産んだ義経の子は、頼朝の命により由比ヶ浜に捨てられたのだという。 |
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平泉の藤沢秀衡を頼った義経は、秀衡亡き後、秀衡の子泰衡に衣川館を攻められ、最後を遂げた。 |
静御前の墓に植えられている静桜は、静が義経の菩提を弔うために植えた桜が名の起こりと伝えられる。 |
埼玉県久喜市栗橋中央1丁目2番 JR宇都宮線・東武鉄道日光線 「栗橋駅」から徒歩1分 |
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