1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は、源範頼、大内義信、加々美遠光、安田義定、伏見広綱、小山朝政、千葉常胤、三浦義澄、八田知家、足立遠元らを供に鶴岡八幡宮の放生会に参列しました。 これが現在の鶴岡八幡宮例大祭の始まりとなります。 放生会は、仏教の殺生を禁じる思想に基づくもので、魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという仏教の儀式です。 鶴岡八幡宮の放生会では、源平池(放生池)に鯉などを放ち、善業を積むという意味合いが込められていたといいます。 『吾妻鏡』には、8月1日から15日までの間、殺生を禁止することを関東の荘園などに命令し、鎌倉の海、浜、川、溝などでもこれを守らせるよう命令されたことが記されています。 |
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) |
源平池 (鶴岡八幡宮) |
前年の8月15日、東大寺再建の勧進のため平泉に向かう途中の西行から弓馬について聞いた頼朝は、この放生会で流鏑馬を奉納します。 流鏑馬の起源は古く、『日本書紀』には「馬的射」(うまゆみい)を行ったとあるようです(680年(天武天皇9年))。 この「馬的射」が「流鏑馬」の原型といわれています。 |
この日、奉納された流鏑馬では、射手五騎の全てが的中させたといいます。 |
一番 |
射手 長江太郎義景 |
的立 野三刑部丞成綱 |
二番 |
射手 伊沢五郎信光 |
的立 河匂七郎政頼 |
三番 |
射手 下河辺庄司行平 |
的立 勅使河原三郎有直 |
四番 |
射手 小山千法師丸 |
的立 浅羽小三郎行光 |
五番 |
射手 三浦平六義村 |
的立 横地太郎長重 |
熊谷直実は、武蔵国熊谷郷を本拠とした武将。 この年の流鏑馬では的立て役を命じられますが、拒否したため、所領の一部を没収されています。 流鏑馬と熊谷直実の逸話 |
諏訪盛澄(金刺盛澄)は、諏訪大社下社の大祝。 頼朝の挙兵に参じなかったため、捕えられて梶原景時に預けられていましたが、この年の流鏑馬で妙技を見せて罪を許されています。 流鏑馬と諏訪盛澄の逸話 |
石和八幡宮は、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。 源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだという。 |
西行と出会う |
奥州藤原秀衡の死 |
|