1186年(文治2年)8月15日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝は、 鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。 東大寺再建に必要な砂金を勧進するため、奥州平泉へ向かう途中だった西行でした。 西行の俗名は、佐藤義清(のりきよ)。鳥羽上皇に仕える北面の武士でした。 藤原秀郷を祖とする佐藤氏は、頼朝に仕えた安達盛長や、源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。 |
東大寺は、1180年(治承4年)12月の平重衡による南都焼討によって灰塵と帰してしましました。 頼朝もその再建に尽力し、1195年(建久6年)の上洛時には、大仏殿の落慶供養に参列しています。 |
西行に面会した頼朝は、和歌について尋ねますが、 「和歌を作るのは、花や月をみて深く感動したときに三十一文字が浮かんでくるだけで、特別な秘訣などはありません」 と西行は答えたといいます。 西行の歌は、自らが頼朝に語ったように、深い感動がそのまま詠まれたものでした。 のちに後鳥羽上皇は西行について、「生得の歌人」と評し、「常人では及ぶことはできない」と語ったといいます。 頼朝は、弓馬のことについても尋ねています。 「弓馬のことは出家する前までは秀郷以来の家伝もありましたが、出家遁世してしまった今はみんな忘れてしまいました」 と答えたといいます。 それでも多少は語られた話を、頼朝は筆記させたそうです。 翌日正午頃、西行は御所を退出し、奥州への旅を続けます。 その時に頼朝から銀の猫を賜ったそうですが、御所の門前で遊ぶ子どもにあげてしまったといいます。 |
西行から弓馬について話を聞いた頼朝は、翌年の鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬を奉納します。 |
鎌倉十橋の一つ裁許橋の別名は西行橋。 この橋の上で頼朝に声をかけられたという伝説が残されています。 |
西行は平泉を二度訪れているのだといいます。 奥州平泉の中尊寺の東物見台には、西行の歌碑が建てられています。 |
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