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『新編鎌倉志』によると・・・ 建長寺の塔頭回春庵(回春院)の山の上には原田地蔵があって、地中に掘り埋めてあったのだという。 この地蔵は、原田種直の子が鎌倉に来て、父の骨と由比の戦死者の骨を取り集めて粉にして作ったものだったのだとか。 原田種直とは? 筑前国の武将で、1185年(元暦2年)2月1日、源範頼が率いる平家追討軍と戦ったことで知られている(葦屋浦の戦い)。 |
※ | 上の画像の地蔵尊と原田地蔵とは関係ありません。 |
原田種直と地蔵尊の伝説は、愛知県豊橋市にも伝えられている。 民話「千体骨地蔵」によると・・・ 葦屋浦の戦いで敗れた原田種直は、捕えれて鎌倉の土牢に幽閉されてしまう。 その時、種直の妻・栄燿は、お腹に子を授かっており、合戦後、男子が誕生して花若丸と名付けられた。 13歳になった花若丸が、父が敗れた葦屋浦に出かけた時、たくさんの戦死した武将たちのものと思われる骨を目にした。 花若丸は、その骨をすりつぶして、心を込めて小さな千体の地蔵像を作り上げた。 そして、千体の地蔵像を厨子に入れて、父の許しを請うために鎌倉へと旅立った。 千体の地蔵像を背負い、念仏を唱えながら旅をする花若丸の噂は、やがて源頼朝の耳にも入る。 鎌倉に到着して頼朝に召された花若丸は、自分が原田種直の子であることや鎌倉へ来た理由を語る。 その話を聞いた頼朝は、花若丸の親を思う気持ちに打たれて種直の罪を許したのだとか。 その後、種直たちは、三河国の足助に住むことに。 足助に向かう道中で見た花ケ崎が葦屋浦に似ていたことから、そこに正林寺を建立して千体骨地蔵を安置したのだという。 |
『新編鎌倉志』は原田種直が亡くなった後の事で、「千体骨地蔵」の民話では生存中の事という違いはあるが、戦死した者の供養のために地蔵像を作ったという話は一致している。 建長寺は、地獄谷と呼ばれた処刑場跡に建てられた寺。 建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のため、地蔵尊を本尊とした心平寺があった。 その心平寺は回春院(回春庵)の辺りにあったのだと伝えられている。 処刑場跡と原田地蔵の伝説には、何か関係があるのかもしれない。 |
建長寺の本尊は地蔵菩薩。 その理由は地蔵菩薩を本尊とする心平寺があったためと言われている。 ただ、原田種直の子が作った地蔵尊がこの地にあったとするなら、心平寺が建てられる前から、この地には地蔵菩薩を本尊とした地蔵堂があったのかもしれない・・・ |
心平寺地蔵堂 (横浜三溪園) |
伝説の済田地蔵 |
横浜の三溪園には、心平寺の地蔵堂といわれる建物が移築されている(国重文)。 建長寺の仏殿脇段に置かれている地蔵菩薩坐像が心平寺の本尊と伝えられ、「心平寺地蔵」と呼ばれている。 済田地蔵は、心平寺地蔵に納められていたものと伝えられ、建長寺創建後は、本尊に納められていたものだという。 |
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。 臨済宗建長寺派大本山。 鎌倉五山の第一位。 |
鎌倉市山ノ内8 0467(22)0981 JR北鎌倉駅から徒歩15分 |
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