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龍宝(寳)寺(曹洞宗)は、1503年(文亀3年)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、1575年(天正3年)、北条氏勝が現在地に移し、「龍宝寺」と称するようになった。 七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。 歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。 現在の本堂は、1960年(昭和35年)の再建。 茅葺きの山門は、元禄年間(1688〜1704年)に建てられたものという。 境内には「新井白石の碑」や「旧石井家の住居」がある。 龍宝寺のある植木は、新井白石の知行地となっていた時代がある。 |
開山 | 泰絮宗栄 |
開基 | 北条綱成 |
本尊 | 宝冠釈迦如来 |
鎌倉の曹洞宗の寺 除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜 |
子育地蔵 |
旧石井家住宅 |
新井白石碑 |
金比羅宮 |
北条三代の墓 |
七曲坂 |
七曲坂は、玉縄城の大手門への道。 現在もその面影を残した道が残されている。 七曲坂を上り、城宿辺りから「ふあん坂」を下れば久成寺の横に出る。 |
1877年(明治10年)、玉縄学校(現在の玉縄小学校)が貞宗寺から龍宝寺へ移された。 |
開基の北条綱成は、父は今川氏の家臣福島正成とされている。 父の死後、北条早雲の長男氏綱の家臣となり、氏綱に気に入られ「北条」を名乗るようになったのだという。 氏綱の子為昌が第2代玉縄城主となるとその後見役を任され、1542年(天文11年)に為昌が死去すると、為昌の養子という形で綱成が家督を相続し第3代玉縄城主となった。 いつも黄色の練絹に「八幡大菩薩」と書いた旗を背にしていたことから、「地黄八幡」(じきはちまん)と呼ばれた。 |
◎玉縄開城 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって、徳川家康に包囲された玉縄城は、龍宝寺の住職了達が北条氏勝を説得したことにより無血開城され、家康に明け渡されたのだという。 |
◎七騎谷 源実朝が公暁に暗殺され、その首をもって逃げた七騎の侍が龍宝寺付近に隠れたということから、この付近の谷は、「七騎谷」(ななきやと)と呼ばれていた。 源実朝の首と七騎谷の伝説 |
十月桜 |
コスモス |
戦国時代の名城「玉縄城址」周辺を散策 玉縄城址の七曲坂〜鎌倉の古道〜 玉縄城址探索ウオーク(玉縄城築城500年)2012/10/28 |
鎌倉市植木129 0467(46)2807 大船駅西口より徒歩20分 |
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