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1190年(文治6年)4月7日、源頼朝は下河辺行平に呼び出しの書状を送った。 その理由は、嫡男の頼家の弓の師範になってもらうため。 頼朝は書状とともに馬も送ったのだという。 |
そして、4月11日、頼家がはじめて小笠懸を射る儀式が御所の南庭で行われた。 行平は「引目矢」(蟇目)を献上。 頼家の手伝いを命じられた。 三浦義澄は的、千葉常胤は馬、小山田重成は鞍、八田知家は乗馬袴の行縢(むかばき)と乗馬沓、宇都宮朝綱は水干と袴を献上。 小山朝政・足立遠元・畠山重忠・小山田重朝・和田義盛・梶原景時らが呼ばれ、その他多くの御家人が集まり、小笠懸は三度行われた。 皆、その腕に感心したのだという(こと時、頼家は数え9歳)。 その後の酒宴の席で頼朝は、頼家の弓の師匠である行平に刀を与えている。 |
弓の名手だった行平は、流鏑馬・笠懸・弓始などの射手に選ばれ、源頼朝からは「日本無双の弓取」と称賛された。 |
1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で始められた放生会で奉納された流鏑馬の射手に選ばれている。 |
鶴岡八幡宮の除魔神事は、源頼朝が「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としている。 行平が射手に選ばれた御弓始が『吾妻鏡』の最初の記録となっている。 |
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