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六代御前(平六代(高清))は、平維盛の子で平清盛の曾孫にあたる。 六代は、壇ノ浦の戦い後、源頼朝に命じられて平氏残党の探索をしていた北条時政によって捕らえられるが、文覚の助命嘆願によって助けられた。 その後、出家して「妙覚」と名乗っていたという。 しかし、1199年(建久10年)1月13日、六代を助けた頼朝がこの世を去ると、それから、わずか1ヶ月後、最大の庇護者である文覚も「三左衛門事件」の際に捕らえられ佐渡国流罪となる。 六代も捕らえられ、同年2月5日、田越川で処刑されたのだという。 |
※ | 六代の没年には諸説あって、いつ捕らえられ、いつ処刑されたのかは、定かではない。 |
平正盛から数えて六代目に由来するという。 正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛→六代 |
『吾妻鏡』によると、 1185年(文治元年)12月17日、京都の遍照寺奥、大覚寺北の菖蒲沢に潜伏しているところを北条時政によって捕えられた六代。 輿に乗せられて鎌倉へ送られることとなるが、神護寺の文覚が子細を頼朝に伝えてからにしてもらいたいと嘆願。 12月24日、文覚の弟子が頼朝に伝えたことは、 「六代御前は文覚の弟子であるのに斬首しようとしている。 祖父の重盛はあなたの命を助けてくれた方でしょう。 重盛への恩と文覚との縁をもって、文覚に預けてもらいたい」 という内容。 文覚の申し分を無視するわけにもいかない頼朝は「当分の間、文覚に預ける」とした旨の書状を時政に送ったのだという。 命を助けられた六代は、出家して「妙覚」となり、「三位禅師」と呼ばれるようになる(父維盛は「三位右近衛権中将」だった。)。 |
『吾妻鏡』によると、 1194年(建久5年)4月21日、六代は鎌倉へ下向し、6月15日には頼朝に謁見している。 |
JR横須賀線「逗子駅」より徒歩10分程度 |
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