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建長寺の総門は、1940年(昭和15年)に京都の般舟三昧院から移築された建物。 1783年(天明3年)に建立されたいわれる建物で「巨福門」(こふくもん)と呼ばれている。 「巨福山」(こふくさん)の額は、第十世一山一寧(いっさんいちねい)の筆で、「巨」の字に点が加えられ、百貫の価をそえたものといい、この点は「百貫点」と呼ばれている。 |
「巨福山」は建長寺の山号。「小袋」という地名から付けられた。 |
『北条九代記』によると・・・ 一山一寧は、元国台州の出身。 律宗・天台宗を学んだ後、禅宗に転じ、1299年(正安元年)10月8日、元国王の命により来日。 九代執権北条貞時は、一山を元国のスパイとして捕え、一時、伊豆国の修禅寺に流すが、禅道・学問に優れた僧であるという評判だったため、鎌倉に招いて建長寺に住まわた。 貞時は毎日面会して重要な事を訪ねたのだという。 禅宗を重んじていた後宇多天皇も京都に一山を招いて南禅寺に住まわせ、禅道の根本を問うたのだという。 その後、一山は元国へ帰ることもなく、1317年(文保元年)10月25日、南禅寺で入滅(71歳)。 「一世に横行す、仏祖の呑気。箭己に弦を離れ、虚空地に落つ」 (一生涯を自在に生きた。仏はそれを問題にしないでくれた。矢はすでに弦を離れ、大空は地に落ちた。そのように私の命もこの世を去るときが来た。) |
修禅寺 |
南禅寺 |
伊豆流罪となった一山が幽閉されたのが修禅寺。 1293年(永仁元年)、許された一山は鎌倉に招かれ建長寺十世となる。 鎌倉では、円覚寺や浄智寺にも住した。 1313年(正和2年)、後宇多天皇に京都へ招かれた一山は南禅寺三世となった。 |
修禅寺の指月殿に掲げられている額は、一山一寧によるもの。 指月殿は、北条政子が長男頼家の冥福を祈って建立した堂。 |
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。 臨済宗建長寺派大本山。 鎌倉五山の第一位。 |
鎌倉市山ノ内8 0467(22)0981 JR北鎌倉駅から徒歩15分 |
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