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『吾妻鏡』によると・・・ 1202年(建仁2年)3月8日、比企能員邸の桜が満開となり、源頼家が招かれた。 宴会の席では、京都からやってきた白拍子・微妙(びみょう)が舞い、頼家は大いに喜んだのだという。 |
比企能員によると、微妙は何か訴えがあって鎌倉までやってきたとのこと。 頼家は微妙に事情を尋ねてみるが、涙を流すばかりで一言も発っさない。 それでも何度も尋ねると 「去る建久年中に父右衛門尉為成は、讒訴によって投獄され、西獄(都の右京に置かれていた獄舎)の囚人は、奥州に追放されることとなりました。 父も頼朝さまの雑用に追い立てられて奥州へ下りました。 母は、それから間もなく、悲しみに耐えきれず病気になり死んでしまいました。 その時私は七歳でした。 兄弟も親戚もなく、みなしごとなってしまいました。 大人になった今、父の行方が恋しく、その生き死にを知りたいので、白拍子となって、ここまでやってきました」 この話を聞いていた一座の者は、皆同情の涙を流し、速やかに奥州へ使いを出し、消息を尋ねるよう決定したのだとか。 |
3月15日、頼家の御所で微妙の舞を観た北条政子は、微妙の父を慕う心根に感心し、急いで奥州へ飛脚をたてて微妙の父親を探すよう命じ、さらに、伝令が帰ってきたときは政子の屋敷に来させるよう命じて、微妙を連れて屋敷へ戻った。 8月5日、奥州へ遣わした飛脚が戻るが・・・ その報告は微妙の父為成はすでに死亡しているというものだった。 それを聞いた微妙は、号泣しながら気を失い倒れ伏しまったのだという。 8月15日夜、微妙は、亡き父の追善供養をするため寿福寺の栄西の宿舎で出家。 法名は持蓮。 同情した政子は、深沢のあたりに草庵を与え、政子が持仏堂の礼拝するときには参るようにと言い聞かせたのだという。 微妙は、御家人の古郡保忠と熱愛中だったが、保忠が領地の甲斐国へ下っている間に尼となってしまった。 |
8月24日夜、保忠が鎌倉へ帰参。 微妙が栄西の弟子・祖達房に頼んで出家した事を聞くと、子細を尋ねたいと言い出すが・・・ 恐怖した祖達房は、御所の門前へ逃げてしまう。 怒りのおさまらない保忠は、従僧たちをなぐってしまった。 政子は、結城朝光を派遣して保忠をなだめ、和田義盛や結城朝光を使って保忠の理不尽を頼家に伝えさせた。 8月27日、保忠は、頼家からお咎めを被ったのだとか・・・。 その後、微妙がどうなったのかは不明だが、保忠は1213年(建暦3年)5月4日に甲斐国で自殺。 古郡氏は、武蔵七党の一つ横山党の一族とされ、同年5月2日に起こった和田合戦で和田義盛に味方していた。 |
妙本寺は、微妙が舞った比企能員邸の跡に建てられた寺。 |
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