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源頼朝は、1147年(久安3年)4月8日、源義朝の三男として誕生。 母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前。 |
1159年(平治元年)、頼朝は、父義朝に従って戦った平治の乱で平清盛に敗れた。 義朝は、頼朝ら8騎とともに東国へ逃れようとするが頼朝は途中ではぐれてしまう。 落武者狩りに遭いながら、尾張国野間の長田忠致のところに身を寄せた義朝は、忠致の裏切りに遭い、入浴中に暗殺された。 義朝の郎党鎌田政長(政清)も酒を飲まされ、忠致の子景政の騙し討ちに遭った。 愛知県美浜町の野間大坊(大御堂寺)には義朝の墓がある。 のちに頼朝は、鎌倉に勝長寿院跡を建て、義朝と鎌田政長(政清)の髑髏を葬った。 義朝の長男義平は、清盛暗殺を企てて処刑され、次男朝長は、落武者狩りに遭ったときに負傷したため義朝に殺してもらったのだという。 |
源義朝の墓 (愛知県美浜町) |
義朝の湯殿跡 (愛知県美浜町) |
逃亡途中で義朝らとはぐれた頼朝は、平家の家人に捕らえられ京六波羅に送られた。 平清盛によって処刑されると思われた頼朝だったが、清盛の継母池禅尼の命乞いによって救われた(早くに死んだ子家盛に頼朝が似ていたからだという。)。 死を免れた頼朝は、伊豆国の蛭ヶ小島に流された。 |
源頼朝の助命嘆願をした池禅尼 源頼朝が流された地は伊東という説 |
京都の六波羅蜜寺の境内には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいたという。 |
平治の乱〜源氏勢力の壊滅〜 平清盛と源頼朝 武家政権を樹立した平清盛 平治の乱・・・伊豆流罪となった源頼朝 平清盛が厳島神社の納めた経巻・・・平家納経 源頼朝と伊豆国 平清盛の最期・・・平氏の没落 平家物語が描く平清盛の死 平氏の滅亡・・・吾妻鏡に記された壇ノ浦の戦い |
源頼朝が流されたという伊豆国の蛭ヶ小島は、水田の中にあった高地で、蛭が多かったことから付いた名といわれている。 頼朝はここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごした |
静岡県伊豆の国市四日町17−1 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩10分 |
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