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大町花ヶ谷にあった慈恩寺は、足利尊氏の子直冬の菩提寺だったといわれている。 境内には、数百種の草花が植えられ、四季を通じて絶えることなく花が咲いていたため、慈恩寺のあった谷を「花ヶ谷」と呼ぶようになった。 慈恩寺は、1323年(元亨3年)にはその存在が確認されていることから、鎌倉時代後期には創建されていたものと考えられている。 開山は桂堂士聞という説もあるが定かではない。 花ヶ谷の花咲地蔵尊は、慈恩寺の境内に祀られていたと伝えられている。 |
※ | 慈恩寺は、室町時代後期には衰え、戦国時代には廃絶していたものと考えられている。 |
慈恩寺詩板(じおんじしばん)は、円覚寺塔頭伝宗庵所有。 室町時代に京都五山の僧侶が慈恩寺の勝景を賞して詠んだ詩を板に刻ませた。 慈恩寺詩板は、それを江戸時代に転写したものと考えられている。 刻まれた詩などから、慈恩寺は相模湾や富士山を望む場所にあり、境内には様々な草花が植えられ、七層の塔をもつ禅宗寺院であったらしい。 2020年(令和2年)、鎌倉市の文化財に指定。 |
足利直冬は尊氏の子として誕生する。 母は越前局といったようである。 しかし、尊氏からは認知されず、幼少の頃は東勝寺の小僧をしていたのだという。 1327年(嘉暦2年)の生まれといわれていることから、新田義貞の鎌倉攻めのときには、6才前後だったと思われる。 もしかすると東勝寺で鎌倉幕府滅亡のときを見ていたのかもしれない。 のちに上洛。 還俗して叔父足利直義の養子となり「直冬」と名乗った。 観応の擾乱では、尊氏に敵対し、直義亡き後も反幕府勢力の一つとなった。 1387年(嘉慶元年)に亡くなったというが詳しいことは不明。 直冬の法号は「慈恩寺殿」だという。 |
逆川に架けられた花咲橋を渡るとすぐに花咲地蔵がある。 |
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