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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)12月4日、上総国より阿闍梨定兼が鎌倉に到着。 鶴岡八幡宮の供僧職に任ぜられた。 |
※ | 供僧(ぐそう)とは、社役を務める僧侶のことで、神主より上の地位にあった。 |
定兼は、1175年(安元元年)4月26日、何らかの罪によって上総国に流された罪人だったが、仏法の知識があると評判の人物だったのだという。 源頼朝は、当時の鎌倉に然るべき知識をもった者がいなかったため、上総広常に命じて定兼を呼び出していた。 12月16日には、鶴岡八幡宮(鶴岡若宮)に鳥居が建てられ、最勝王経の講賛が行われ、頼朝も水干を着て名馬に乗って参詣している。 |
※ | 講賛とは、経文の意味・内容について講釈し、その功徳をたたえること。 |
※ | 最勝王経とは、護国三部経の一つ(法華経・仁王経)。 |
鶴岡文庫の鶴岡八幡宮の模型は、1591年(天正19年)5月14日付けの「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」をもとに作られたもの。 1180年(治承4年)12月16日に建てられた鳥居とは、太鼓橋(赤橋)の奥に建てられた「内の鳥居」だと考えられている。 |
1191年(建久2年)、頼朝は「供僧二十五口の制」を定め、鶴岡八幡宮には二十五坊が置かれた。 定兼を供僧職に任じたことがその始まりといわれるが、二十五坊には定兼の名は見られない。 |
天台(寺門系)から真言(東寺系)へ変わった別当職 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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