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源頼朝に捕らえられた九州平氏・大橋太郎通貞が投獄されていたという土牢。 伝説によると・・・ 豊後国の地頭をしていたという大橋太郎は、 ある時、鎌倉の源頼朝に呼び出され、謀反の疑いをかけられて投獄されてしまう。 豊後国の領地は没収、妻と生まれたばかりの男子は追放。 それから12年後、父への思いも大きくなってきた少年は、鶴岡八幡宮に詣り、法華経を唱えた。 やがて法華経を唱える少年の事は頼朝の耳にも入る。 御所に呼ばれた少年は、捕らえられた大橋太郎の子で、父に会うために鎌倉へ来たことなどを頼朝に話した。 頼朝は少年の父を思う心に免じて、大橋太郎を解放、本領を安堵したのだという。 法華経の信者だった頼朝は、法華経の功徳についても語ったのだとか。 |
大橋氏は、平氏の「一の郎党」と称された平家貞から始まる家系。 『吾妻鏡』によると、家貞の子・貞能は、平氏が壇ノ浦に滅亡した後の1185年(元暦2年)7月7日、宇都宮朝綱を頼って頼朝に投降している。 その後、助命された貞能は朝綱に預けられているが、その後の消息は不明だという。 その貞能の子が通貞だというが詳細は不明。 |
頼朝に許された大橋太郎は、豊後国に帰る途中、ある村で漁師に厚いもてなしを受けた。 その村を気に入った大橋太郎は、国へは帰らず、家を建てて商売を始める。 やがて、その噂は豊後にも聞こえるようになり、昔の仲間がたくさん集まり、わずか2、3軒の漁師の村が大きな村へと発展して、大橋村と名付けられたのだという。 現在の福岡県行橋市は、行事村と大橋村の一字ずつをとって付けられた名。 行橋市には大橋太郎の碑が建てられているらしい。 |
光則寺は、日蓮に帰依した宿谷光則が自邸を寺とした。山号の行時山は光則の父の名から付けられたもの。 カイドウの寺として知られている。 |
鎌倉市長谷3−9−7 0467(22)2077 江ノ電「長谷駅」から徒歩8分。 |
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