女性問題で蟄居させられた北条義時の次男朝時 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1212年(建暦2年)5月7日、北条義時は、次男朝時(ともとき)を勘当し、駿河国富士郡へ下向させた。 その理由は、女性の居室に忍び込むという問題を起こしたため。 その女性とは、将軍源実朝の妻坊門姫(西八条禅院)の官女。 佐渡守親康の娘で、前年に京都から下ってきていた。 その美貌に夢中になった朝時は、恋文を渡すが承知されなかったため、深夜に居室へ忍び込んで誘い出したのだという。 |
北条朝時は、義時の正室姫の前が産んだ子。 1193年(建久4年)誕生。 北条泰時の異母弟。 正室の長子であることから嫡男だったとも考えられるが・・・ 『吾妻鏡』には朝時誕生の記述はなく、そのころの記録では泰時が嫡男とされている。 1206年(建永元年)10月24日に元服。 次郎朝時と名乗る(源実朝から一字を賜ったらしい。)。 |
※ | 1203年(建仁3年)の比企能員の変後、義時と姫の前は離婚している。 |
小鹿を射止めた金剛(泰時)と矢口の祭り 北条泰時の元服式と正妻の矢部禅尼 |
和田義盛の謀反が決定的となる中の1213年(建暦3年)4月29日、蟄居していた駿河国から鎌倉へ戻り、5月2日の和田合戦では泰時とともに御所での防御戦に力を尽くした。 1221年(承久3年)の承久の乱では北陸道の大将軍として出陣している。 1245年(寛元3年)4月6日死去(53歳)。 |
北条朝時は、祖父である北条時政の名越邸を継承したことから、名越朝時とも呼ばれる。 時政は、朝時を後継者と考えていたという説があるようだが、朝時が名越邸を継承した理由や時期は不明。 |
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