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源頼朝の姉妹には坊門姫の他に妹がいたのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ 1190年(建久元年)10月29日、頼朝は上洛途上の青墓で、父義朝の妾だった大炊の娘を呼び出して、心付けを与えている。 大炊は『平治物語』に登場する延寿御前、娘は同じく夜叉御前と考えられる。 頼朝の祖父為義の最後の妾、保元の乱で討死した内記平太政遠、平治の乱で義朝を内海まで送った平三真遠(鷲栖源光)と大炊(延寿御前)は、兄弟姉妹で内記大夫行遠の子なのだとか。 ※内記は中務省直属の官。 ※大夫五位を授けられた者。 |
※ | 『保元物語』によると、為義の妾となった女子は、4人の子らとともに京都の六条堀川館に住んでいたが、保元の乱後、子4人は、義朝の命を受けた波多野延景によって殺害されている。 |
※ | 『平治物語』によると、夜叉御前は平治の乱後に川に身を投げ、母の大炊は出家したのだとされている。 |
※ | 『平治物語』によると、大炊(延寿御前)の父は大炊兼遠となっている。 |
『平治物語』によると・・・ 1159年(平治元年)12月の平治の乱後、兄の頼朝が捕らえられて六波羅へ連行されたことを聞いた夜叉御前は、 「わたしも源義朝の子。 女子ではあっても命が助かる事はないでしょう。 一人ずつ死ぬのであれば、せめて頼朝殿と同じ道を歩きたい」 と言って悲しんでいたので、母の延寿が慰めていたのだが・・・ 2月11日夜、青墓の宿所を出て、はるか離れた杭瀬川に身を投げて死んでしまった(11歳)。 悲しんだ母の延寿は、娘と同じ川に身を投じようと考えるが、父の大炊兼遠に取りなされ、その後、尼となって、ひたすら義朝と夜叉御前の菩提を弔ったいたのだという。 |
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