後鳥羽上皇の地頭職改補の要求を拒絶した北条義時 |
|
『吾妻鏡』によると・・・ 1219年(建保7年)3月9日、後鳥羽上皇は藤原忠綱を使者として鎌倉に下向させ、源実朝の死を弔うとともに・・・ 摂津国の長江・倉橋の両荘の地頭職を改補(撤退)するよう要求。 |
※ | 御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉政権にとって、このような要求を受け入れることはできない。 |
3月12日、北条政子邸に参集した北条義時・北条時房・北条泰時・大江広元は、この要求を拒絶することを決定。 |
※ | 「源頼朝の補任した地頭職は改補しない」というのが鎌倉幕府の原則。 |
『北条九代記』によると・・・ 長江・倉橋の両荘は後鳥羽院領。 後鳥羽上皇の近くに仕えて寵愛されていた白拍子の亀菊に下賜されていたが・・・ 地頭が領家(亀菊)の命令を聞かないため、後鳥羽上皇はすぐに地頭を改めるように命じたのだという。 これに対して北条義時は・・・ 「地頭職というのは大昔にはなかったもの。 平家を追討した源頼朝卿が総追捕使に任命され、全国に守護と地頭を置くことが許されたのである。 平家討伐の間、御家人らは親を敵に討たれ、あるいは子を討たれ、家臣が討たれた。 そういった忠義の臣下の功労に報いるために頼朝卿は土地を分け与えた。 その土地を過失もないのに取り上げるわけにはいかない」 として、命令を拒絶したのだという。 |
同じ頃、義時は西面の武士として後鳥羽上皇に仕えた仁科盛遠の所領を没収し、後鳥羽上皇の返還命令を拒絶している。 西面の武士は、後鳥羽上皇の警護にあたった武士集団。 この二つの事件は、2年後に起こる承久の乱の一因となった。 |
仁科盛遠の所領を没収した北条義時 北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
|