|
閉ぢたりし 上の薄氷 解けながら さは絶えねとや 山の下水 |
「閉ざされていた谷川の薄氷も解けたというのに、あなたは二人の仲を終わりにするというのでしょうか・・・」 紫式部は、藤原宣孝が自分の文(手紙)を他の女に見せるというので、 「今までに出した手紙を全部返してくれないなら、もう返事は書きません」 と伝えると、宣孝は 「全部返そう」 と言ってきたのだとか。 この歌は、そう怨み言を言ってきた宣孝が詠んだもの。 腹を立てていた宣孝は、さらに・・・ |
東風に 解くるばかりを 底見ゆる 石間の水は 絶えば絶えなむ |
「底が見える石間の浅い流れのように、二人の仲が絶えてしまうならそれでいい・・・」 と詠んだ。 このとき「もう何も言わない」と伝えらえた紫式部は、こう返す・・・ |
言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ |
「何も言わず終わりと言うなら、それでよろしいでしょう。あなたの腹立ちは抑えられませんから・・・」 すると、夜になって宣孝は・・・ |
たけからぬ 人かずなみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし |
「立派でなく人並みでない者が腹を立ててもしょうがことです・・・」 宣孝は、紫式部の圧力に屈してしまった??? |
当時、もらった文(手紙)を相手に返すというのは、一般に二人の仲が絶えるときに行われた。 ここでの贈答歌は痴話喧嘩的なものという説もあるが、紫式部は絶縁を宣言していたのかもしれない・・・ |
この紫式部と藤原宣孝の贈答歌は、正月10日ごろに詠まれたものらしいが・・・ 何年の事なのかが分からないので、「結婚後の事」という説と「結婚前の事」という説がある。 「正月10日ごろ」という歌が詠まれた日を「立春前後」と考えると・・・ 「結婚後の事」ならば999年(長保元)、 「結婚前の事」ならば996年(長徳2年) が該当するらしい。 「結婚前の事」であったとすると・・・ 996年(長徳2年)は、紫式部が越前に下向する年。 もしかすると、この喧嘩が理由で紫式部は父の藤原為時に同行して越前に下向する決意をしたのかもしれない。 |
藤原宣孝は、996年(長徳2年)に越前国へ下向した紫式部のもとに求婚の手紙を贈り、その後も幾度となく手紙を書いていたらしい。 しかし、紫式部はその度に拒否の歌を返している。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部歌碑 (紫式部公園) |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。 園内には、金色の紫式部像が建てられ、その周辺に建てられた紫式部歌碑の中には藤原宣孝への歌もある。 「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 |
紫式部歌碑 (越前市・紫式部公園) 紫式部の歌~藤原宣孝の求婚を拒否する歌~ |
紫式部が越前国から帰京したのは、997年(長徳3年)秋から翌年の春にかけてと言われている。 998年(長徳4年)の夏には、藤原宣孝と直に話をするようになり、お互いの気持ちも理解できるようになったらしい。 |
紫式部の歌~藤原宣孝と結婚する紫式部が詠んだ歌~ |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|