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韮山・原木に成願寺という寺がある。 この寺は源頼朝が名もない餅売りの嫗(おうな)の望みをかなえて、創建されたものである。 その昔、頼朝は蛭ヶ小島に流されている若いとらわれの身であった。 ひそかにいだく望みもあって、頼朝は毎朝のように、道のりが二里もある三島明神に参詣するのだった。 この道すじの原木にいっけんの茶店があって、嫗がやわらかい草餅を売っていた。 頼朝はときどき茶店によってひと休みし、草餅を食べるのだった。 嫗はどういうわけか、孫のような頼朝のきしょうが気にいり、よくかわいがった。 頼朝もまた、嫗の手づくりの草餅をたべながら語り合っていると、肉親のような安らぎをかんじ、気やすくなるのだった。 いつしか、よい草餅ができたときなど、わざわざ蛭ヶ小島の館にまででむいて、頼朝の心をなぐさめるようになった。 「ご武家さまは、いまにきっと立派なおかたになりますじゃ、わたしにはそのようにみえまする」 頼朝は嫗のことばを、にこにこ笑いながらも、いちいちかみしめて聞いているのだった。 そして、この嫗の目をうらぎってはならないと思うのだった。 「いやいや、なれぬかもしれん、なるかもしれん、夢のようなはなしじゃが、もしなれたらたんとお礼をせねばならんな」 と、じょうだんをいいながら、おいしそうに草餅をほうばるのだった。 時は水の流れのように移っていった。 やがて、世は源氏のものとなり、頼朝は苦難の末に鎌倉に幕府を開くことができた。 嫗は、頼朝の出世をわがことのようによろこんだ。 (わしの目にくるいはなかった)とおもいながら、若い日の頼朝の気しょうの張った姿をおもいおこしながら、 「よかった、よかった、さぞりっぱな大将軍さまにおなりなさったろう」 とひとりつぶやくのだった。 嫗はもう死んでもよいと思ったが、せめてこの世の見納めに、一度だけでも頼朝に会っておきたかった。 でも、その気持ちをとどけられないのがかなしかった。 さとくさかしいおかただから、忘れるようなことはないと思いながらも、あてのない日々をむなしく待つのがつらく、ようやくほそぼそと餅売りを続けていた。 そんなある日、数人のいかめしい鎌倉武士が、原木の嫗の店先に馬でのりつけた。 嫗はなにごとかと、うろたえていると、武士たちはていちょうに、 「わしどもは鎌倉将軍のじきじきの使者として参った。そちは、餅売りの嫗であろうな、将軍さまがたってのお召しじゃ、はやくしたくをしてくだされ」 というのだった。 店先にはちゃんと立派な駕籠が用意されていた。 嫗は心まちにしていた夢がかなえられるよろこびに、胸をおどらせて駕籠の人となり、鎌倉にでむいた。 飛ぶ鳥を落とすようないきおいと、ほしいままに権力をふるう鎌倉将軍の前にでた嫗は、おそれをなして顔を上げることもできず、ひれ伏していた。 「嫗よ、たっしゃであったか、よく生きていてくれたのう。わしは今日の日を、どれほどまちのぞんでいたことか・・・・・それにしてもよく来てくれた、あの日の約束じゃ、なんなりともとらせてやりたい。のぞむものを早く申すがよい・・・・・」 頼朝の声は明るく、そしてたしかなひびきをもっていた。 よろこびとなつかしさに嫗は涙で両ほほをぬらすのだった。 ようやくして、顔をあげた嫗の涙のかすむ目に、少年の日の頼朝の姿と、今をときめく将軍の姿が、二重映しとなってぼんやりとみえるのだった。 「わたしになんの望みがございましょう、お声をかけていただいただけで、じゅうぶんです。その上、将軍さまのりっぱにおなりになったお姿に接することができ、これだけで本望でございます。」 「いやいや、なんなりと申せ、わしも約束だけは果たしておきたいのじゃ」 「もったいないことでございます・・・・・、でも、たってもとのおことばでしたら、お寺を建てていただきたくぞんじます」 嫗には、地位も、栄華も、金銀や財宝も無用のものであった。 この上はせめて、自分がこの世から安心して往生できるささやかな、寺がほしかった。 将軍は、欲のない嫗のねがいを、しずかにきいていたが、深くうなずくのだった。 嫗のねがいは、やがて頼朝によってかなえられ、原木の地に成願寺が建てられた。 そして、嫗をかたどった木彫の像まで寺におさめられたのだった。 「豆州志稿」「伊豆の伝説」 |
1160年(永暦元年)3月、前年の平治の乱で敗れた源頼朝は、伊豆国流罪。 流された地は蛭ヶ小島と伝えられている |
源頼朝は三嶋大社に源氏再興を祈願するため、百日の間通ったのだという。 |
源氏再興を祈願するため三嶋大社に百日間の日参をした頼朝が残した伝説。 |
静岡県伊豆の国市原木158 伊豆箱根鉄道駿豆線原木駅から徒歩10分 |
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