キリシタンたちの旦那寺と呼ばれた鎌倉光照寺 |
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鎌倉の光照寺は、密かに潜伏していた「キリシタンたちの旦那寺」と呼ばれていたのだという。 |
光照寺の山門は、九州豊後国岡藩主の中川氏が建てた東渓院の山門が移されたもの。 梁の下に「中川久留子(くるす)」と呼ばれる十字架の紋が掲げられているため「くるす門」と呼ばれている。 中川氏は、キリシタン大名だったといわれ、光照寺にはキリシタンが持ち込んだという燭台も残されている。 |
江戸時代、キリスト教に対する禁教令が出され、キリシタンでないことを証明するための「寺請制度」があった。 人々はいずれかの寺を菩提寺として、その檀家にならなければならなかった。 そして、寺は幕府の命によって檀家を監視する義務を負わされていた。 しかし・・・ 光照寺には「キリシタンの燭台」が、東慶寺にはイエス・キリストの略字を表す「IHS」が刻まれた「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」が残されている。 寺はキリシタンだと知っていてもそれを黙認していたのかもしれない。 |
鎌倉にキリシタンが入って来たのは、1590年(天正18年)、徳川家康が江戸を開府してから。 江戸浅草近在のキリシタンが鶴岡八幡宮の警備のための人足に混ざって鎌倉に移住してきたといわれている。 1623年(元和9年)には、浅草から巡回にきていた神父フランシスコ・ガルベスが、懸賞金目当ての漁師に密告されて坂ノ下で捕らえられ、小袋谷にあったキリシタン伝道所のヒラリオ孫左衛門夫妻らとともに、江戸小伝馬町の牢に入れられ処刑されている。 現在、鎌倉には多くのキリスト教会があるが、鎌倉は面積当たりのキリスト教系の施設が長崎に次いで多い場所といわれている。 |
鎌倉市山ノ内827 0467(46)6355 北鎌倉駅より徒歩5分 |
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