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1180年(治承4年)12月28日、東大寺は平重衡の南都焼討によって主要伽藍のほとんどが焼け落ちました。 翌年から後白河法皇の支援のもとで始められた再興事業に奔走したのは俊乗坊重源。 源頼朝も大仏の鍍金料の寄進や、大仏殿の材木伐り出しに苦心する重源の助勢を行っています。 1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると、源頼朝が最大の外護者となって再興が進められました。 |
鎌倉国宝館では、10月29日に開催される「東大寺サミットinかまくら」の記念特別企画として「鎌倉meets東大寺」〜武家の古都と南都をつなぐ悠久の絆〜が開催されています。 |
〜鎌倉と東大寺〜 |
南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 東大寺再建の勧進状 |
大仏 |
大仏殿 |
東大寺の再興に積極的に助勢を行った源頼朝。 1195年(建久6年)の大仏殿の落慶供養には数万の兵を引き連れて上洛しました。 以後、鎌倉と東大寺の関係は深まり、重源の後継者には、鎌倉寿福寺や京都建仁寺を開いた栄西が任じられ、三代には栄西の弟子で鶴岡八幡宮の供僧だった行勇が任じられています。 また、鶴岡八幡宮の別当を勤めた定豪が東大寺の別当に就任したこともありました。 |
鐘楼 |
面 |
鐘楼は重源の跡を継いだ栄西による再建。 鶴岡八幡宮に伝わる舞楽面と菩薩面は、大仏殿落慶供養に参列した頼朝が鎮守八幡宮(手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられています。 |
平重衡による南都焼討後の東大寺の復興は、1185年(元暦2年)に大仏開眼供養、1195年(建久6年)に大仏殿落慶供養が行われ、1203年(建仁3年)には総供養が行われています。 南大門の金剛力士像は総供養のために運慶らが造立したもの。 |
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