|
『吾妻鏡』によると、源頼朝は1198年(建久9年)12月27日に行われた相模川の橋供養の帰りに落馬したことが原因で、翌建久10年正月13日に死去したのだという。 これが一般的な説となっているが・・・ 北条政子が源実朝の菩提を弔うために創建したという高野山の金剛三昧院にあった史料「真俗雑録」には・・・ 頼朝の死についての「驚くべき説」が書かれていたらしい。 その内容は・・・ 「夜中に御所を徘徊する不審者を安達盛長が刀で刺すと、それは鶴岡八幡宮に参籠しているはずの頼朝だった」 というもの。 頼朝は自分の恥になるので頓死したことにするよう遺言したのだとか。 |
〜『大日本史』には・・・〜 |
『大日本史』は、江戸時代に水戸藩主徳川光圀が編集を開始した歴史書。 金剛三昧院の「真俗雑録」は現存はしないが、1680年(延宝8年)に『大日本史』編纂のため高野山の調査を行った佐々介三郎宗淳は「真俗雑録」を写し取っていたのだという。 そして、『大日本史』に「真俗雑録」に書かれていた源頼朝の死因を注記として載せている。 頼朝の生涯が描かれた『大日本史』巻之第百八十「列伝第百七 将軍二」は・・・ 一般的に知られているように、頼朝は相模川の橋供養の帰路に落馬したことが原因で死去したとしている。 ただ、すぐ後の注記には・・・。 「正治元年(建久10年 1199年)正月、源頼朝は御所の留守を安達盛長に命じて鶴岡八幡宮での17日間の参籠を開始。 ある夕、御所で白衣の侵入者を発見した盛長は、その者を捕らえて刺すが、その者は参籠中のはずの頼朝だった。 盛長は自害を願い出るが、頼朝はそれを固く止め、この事を秘密にするよう命じ、その夜のうちに頼朝は亡くなった」 と記されている。 |
※ | 佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)は、時代劇『水戸黄門』の助さんのモデルとなった人物。 |
源頼朝は、死後、法華堂(持仏堂)に葬られた。 法華堂跡にある多層塔(源頼朝墓)は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。 |
金剛三昧院は、1211年(建暦元年)、北条政子の発願で源頼朝の菩提を弔うために建立された禅定院に始まる寺院といわる(諸説あり)。 1219年(承久元年)、暗殺された源実朝の遺骨が納められ、金剛三昧院に改称されたのだともいわれている。 金剛三昧院の伽藍整備を行ったのは、実朝の死後、出家して高野山に入った安達景盛。 景盛は、頼朝を刺したとされる安達盛長の嫡男。 |
和歌山県伊都郡高野町高野山425 南海ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「千手院橋」下車 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|