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『吾妻鏡』によると・・・ 1201年(建仁元年)8月11日、台風の襲来で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けた。 下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだという。 8月23日にも台風が襲来。 二度の台風で、五穀は全滅。 |
北条氏の領国伊豆国では・・・ 前年も田畑が損壊して収穫が少なく、春には、種まきができない状況となり、村人らは連署状を提出して種もみ五十石の貸付を受けていた。 秋には返すという約束だったが、8月に台風が襲来し、国中で不作となってしまう。 人々は、逃げてしまおうと話し合っていたのだとか。 それを耳にした北条泰時は、こうした惨状を救うため、10月3日、伊豆国の北条へ下向。 連署状に署名した者を呼び集めて、その目の前で証文を焼き捨て、「豊作になっても、貸した米を返さなくてよい」と言い聞かせた。 さらに酒や飯を出し、一人あたり米一斗を与えた。 人々は、それらを有難く頂戴し、喜びながら、あるいは、涙を流しながら、泰時の子孫繁栄を祈り、帰って行ったのだという。 酒や米は、予め代官に用意させていたのだとか・・・ |
『吾妻鏡』は、飢饉にも拘らず蹴鞠に夢中の源頼家と徳政を行った北条泰時を対比して描いている。 |
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