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新選組は、幕府に京都守護職を命じられた会津藩主松平容保の配下で活動した組織。 1867年(慶応3年)には幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。 新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったが、1864年(元治元年)の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたという。 1865年(慶応元年)、壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していた。 幕末の尊皇攘夷の中で、長州藩と本願寺とは深いつながりがあり、1864年(元治元年)の「禁門の変」では、長州藩士が本願寺に逃げ込んでいる。 そんな本願寺に新選組が屯所を構えたことは、一石二鳥の効果を狙ったものだったという。 |
本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒を震撼させる毎日で、食料としての豚の飼育も行っていたという。 本願寺にとっては迷惑の日々が続いていた。 新選組は、2年後に不動堂村屯所へ移転するが、その費用を負担したのは本願寺だったという。 そういった経緯の中、二番隊伍長だった島田魁は、1886年(明治19年)に本願寺の夜間警備員となり、1900年(明治33年)3月20日、本願寺で倒れ亡くなっている。 島田魁は、近藤勇をはじめとする新選組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に携えていたという。 |
※ | 北集会所は、1873年(明治6年)、姫路市の本徳寺に移築されている。 したがって、本願寺で新選組の足跡が残されているのは、太鼓楼のみとなっている。 |
壬生寺 新選組ゆかりの寺 |
不動堂明王院 まぼろしの屯所 |
壬生塚 新選組隊士の墓 |
金戒光明寺 新選組発祥地 |
本願寺(通称「西本願寺」)は、親鸞によって開かれた浄土真宗本願寺派の大本山。 七条堀川の地に大伽藍を構え、市民には「お西さん」と呼ばれている。 |
京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60 |
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