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1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵をすると、5月22日、幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分けて進軍を開始。 北陸道の大将軍は、義時の次男・北条朝時。 6月8日、四万騎を従えた朝時は、越中国般若野庄に到達。 翌日には砺波山に布陣して朝廷軍を撃破。 『承久記』によると、牛を捕らえて角先に続松(松明)を結び付けて、敵陣に走り込ませたのだという。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 『吾妻鏡』よると、北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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