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山内容堂(豊信)は、十五代土佐藩主。 分家の身分であったが、十三代、十四代と相次いで急死するなか、22歳で藩主に就任した。 幕政に積極的に参加し、福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主島津久彬とともに「幕末の四賢候」と呼ばれ、老中阿部正弘を支えた。 井伊直弼が大老となると、将軍家世継ぎ問題で一橋慶喜を推して対立し、1859年(安政6年)、謹慎を命ぜられている(安政の大獄)。 容堂の謹慎中、土佐では土佐勤皇党が勢力を強めていたが、1863年(文久3年)の政変で謹慎を解かれた容堂は、土佐に帰り土佐勤皇党を弾圧し潰滅させた。 1866年(慶応2年)、坂本龍馬などの活躍で薩長同盟が成立すると、時代は倒幕へと進む。幕府を擁護していた容堂は、後藤象二郎の薦めによって大政奉還を15代将軍徳川慶喜に建白した。 1868年(明治元年)に明治新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年、45歳で亡くなっている。 遺言によって現在地(大井村の下総山(土佐山))に葬られた。 山内容堂墓は品川区指定史跡。 |
容堂の墓を中心に3つの墓が建てられている。 |
鎌倉山内荘の首藤俊通が土佐藩主山内氏の祖といわれている。首藤氏は代々源氏に仕えていた武将。 俊通の子山ノ内經俊は、源頼朝の挙兵時には平家方に付いたが、經俊の母は頼朝の乳母を勤めており、頼朝は乳母の願いを聞き入れて經俊を許したという伝説が残されている。 鎌倉の明月院は、首藤俊通の菩提を弔うために山ノ内經俊が建てた明月庵が前身。 |
品川区東大井は、坂本龍馬ゆかりの地。 浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐまでのところに土佐藩の抱屋敷があった。 1853年(嘉永3年)、ペリーが来航すると土佐藩は幕府に願い出て砲台を造り、浜川砲台とよばれていた。浜川砲台の警備陣の中に坂本龍馬もいたという。 |
京急「鮫洲駅」から徒歩 浜川砲台:京急「立会川駅」から徒歩 |
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