工藤祐経に怪我をさせて逃げた佐々木盛綱の子信実 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1190年(建久元年)7月20日、御所で催された双六の会での事。 源頼朝の相手をしていた佐々木盛綱の脇には子の信実(15歳)が座っていた。 そこへ工藤祐経がやってきて、座る場所がないので信実を抱えてどかしてしまうと・・・ 怒った信実は顔色を変えて退室し、小石を持ち帰って祐経の額に投げつけるという事件を起こしてしまう。 祐経の額から流れた血が水干におちたことから頼朝が激怒すると、信実はその場を逃げてしまう・・・ 翌日、頼朝は盛綱に信実を捕えてくるよう命じるが、信実は出家して逃亡したため勘当したと返答。 すると、頼朝は、信実はまだ二十歳前の若者だが、祐経がどう思っているか分からないから、早く謝罪するように命じた。 しかし、盛綱は、信実の罪については認めたが、 「盛綱が父として謝罪するのは、武士としての本文ではない」 と主張。 仕方なく、祐経のところへ藤原邦道を使いに出して、 「佐々木盛綱は、すでに信実を勘当したので、今後は遺恨のないように」 と伝えさせると、祐経は、 「今回の件は、信実に道理があるので遺恨はありません。 盛綱に対しても異心はありません」 と返答したのだという。 |
勘当された信実は、のちに許され、1221年(承久3年)の承久の乱では、北陸道の大将軍として出陣して活躍。 その功績から備中国の守護に任命されている。 信実の娘阿波局は、三代執権北条泰時の母ともいわれるが、年代が合わない。 |
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