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亀山八幡宮は、宇佐神宮の神霊を勧請して創建された社。 伝説によると・・・ かつて鎮座する地は、亀山という島だった。 859年(貞観元年)、南都大安寺の僧・行教が宇佐神宮の神霊を京都の石清水へ勧請する途中で亀山に碇泊。 そのとき・・・ 「この山清浄なり、我もっとも愛す。 暫らく祭祀し奉り路を進むべし」 という神託があったため行宮が設けられたのだという。 それが亀山八幡宮の起源。 |
応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇 |
宮地嶽神社 |
熊鷹稲荷神社 |
恵比寿神社 |
お亀明神 |
江戸時代のはじめ、亀山を陸続きにする埋め立て工事の際、人柱募集の高札を見た遊女のお亀は、「我が身を滅して功あるなら」と人柱になった。 お亀明神のイチョウは、お亀の功績を称えて植えられたもの。 イチョウは、第二次世界大戦の戦禍で焼かれてしまうが、新芽を出して年々成長し、実には無数の斑点があるのだという。 お亀は疱瘡を患ってあばた顔だったのだとか・・・ |
平成2年9月29日(フクフクの日)に除幕式が行われた「ふくの銅像」。 下関では「ふぐ」を幸福を呼び込むとして「ふく」と呼んでいる。 ふぐは、縄文時代から食べられていたようだが・・・ 豊臣秀吉は、文禄・慶長の役(1592−1598)の際、ふぐ中毒で死亡する者が相次いだことから、「河豚食禁止の令」を発布。 その後も長州藩をはじめとする多くの藩がふぐ食を禁じていたのだとか・・・。 1895年(明治28年)4月、日清講和会議が下関の料亭「春帆楼」(しゅんぱんろう)で開催されたが、天候がよくなかったので、活きのいい魚が手に入らなかった。 そこで苦肉の策として出されたのがふぐ料理。 ふぐの味に感動した伊藤博文は、山口県と福岡県に限ってふぐ食を許したのだという。 |
床屋という語は下関で生まれたのだとか・・・。 発祥の地碑の説明板によれば、 鎌倉時代、亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士・藤原基晴が宝刀の紛失の責任をとって辞職。 宝刀探しのためにやってきたのが下関。 基晴は、新羅人から髪結の技術を学び、往来の武士を客とした髪結所を開いた。 髪結所の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったため、人々は「床の間のある店」と呼んだ。 それが転じて「床屋」となったのだとか・・・。 その後、基晴の三男・釆女之亮政之は床屋を続けながら宝刀を発見。 天皇に奉還した後、鎌倉に移り住み、京都風の髪結職として重用されて屋敷も賜わり、代々髪結職に精を出したのだという。 十七代目の藤七郎の時には、徳川家康を助けた功績で、江戸八百八町の髪結職の営業権が与えられたのだと伝えられている。 |
赤間神宮境内にある日本西門鎮守八幡宮は、行教が宇佐神宮の分霊を石清水へ勧請する際、日本西門の守護神として創建したのだという。 |
山口県下関市中之町1-1 JR山陽本線「下関駅」からバス 「唐戸」下車 |
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