大庭氏は、鎌倉権五郎景政を祖とし、景政が開発した「大庭御厨」の経営を行っていた豪族です。 源義朝に仕え、保元の乱で活躍しています。 特に、大庭景義は、源為朝の矢を足に受け重傷を負っています。 必殺必中の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。 |
大庭城址 (藤沢市) |
大庭景義像 (茅ヶ崎市・ 神明大神宮) |
1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると、大庭兄弟にとって、頼朝につくのか、清盛(平家)につくのかが大きな問題となりました。 しかし、兄弟の意見は分かれます。 「代々、源氏に仕えてきたからには、頼朝に味方する」というのが兄景義、 一方の弟景親は 「平家の厚恩に報いるため、やはり平家につく」というものでした。 こうして、石橋山の戦いは、兄弟が敵味方となって戦うことになります。 兄弟には、どちらか一方に馳せ参じるのではなく、両方の軍に分かれて、「いずれが勝利しても生き残ろう」という考えもあったのかもしれません。 石橋山の戦いで、景親は頼朝に大勝しますが、その後、頼朝が東国武士団を率いて鎌倉に入ると形勢は逆転してしまいます。 1180年(治承4年)10月18日、景親は、平家に味方するため1000騎を率いて上洛しようとしますが、頼朝軍20万騎が足柄峠を越えて行ったため、景親は前方を塞がれ、河村山に逃げ込みます。 10月20日、頼朝追討のため東下してきた平維盛率いる平家軍が富士川の戦いで敗走すると、10月23日、頼朝に投降しました。 そして、上総広常に預けられました後、10月26日、片瀬で処刑されています。 一方、兄の景義はというと、景親が投降した23日に所領が安堵され、さらに河村義秀の所領を賜っています。 |
景義と景親には、俣野景久という弟がいます。 景久は景親に従っていましたが、富士川の戦い後、平家軍に合流し、加賀国で討死したと伝えられています。 |
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