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円福寺(えんぷくじ)は、新田氏本宗家第四代目の新田政義の創建と伝えられる高野山真言宗の寺院。 正式名は御室山金剛院円福寺。 開山は、京都の仁和寺から招かれた阿闍梨静毫(あじゃりじょうごう)。 本尊は不動明王。 『吾妻鏡』によると・・・ 1244年(寛元2年)6月17日、大番役で京都に滞在していた政義は病気を理由に突然出家し、新田荘に帰ってしまったのだという(仁和寺で出家したらしい。)。 六波羅探題や番役の頭だった安達泰盛にも相談がなかった無許可の出家だったため所領が没収された(一部で済んだらしい。)。 政義の無断出家によって新田氏本宗家は没落し、一時は惣領職も没収され、八代義貞まで無位無官に甘んずることになる。 円福寺の創建は、政義が新田荘由良郷別所に蟄居した頃と考えられている。 政義・政氏・基氏・朝氏の位牌がある。 |
※ | 宗家は、本家の当主のこと。 |
※ | 惣領は、一族を統率する権限や所領などの支配権。 |
鎌倉時代の千手観音が安置されている。 |
安置されている十六体の神像は、そのうちの一体の刻銘から開山の静毫の造像とされる。 |
国良親王は、後醍醐天皇の皇子・宗良親王と新田義宗の娘との間に誕生したという説がある。 ただ、義宗の生誕年から考えると無理があるので、父の新田義貞の娘かもしれない。 足利尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱で直義方に付いた義宗は、宗良親王を推戴して挙兵し、一時鎌倉を占領したのだという。 宗良親王は天台座主(比叡山延暦寺の貫主)だったが、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると還俗し、吉野の南朝方として各地を転戦したのだ伝わる。 |
新田氏累代の墓と伝えられ、多層塔や五輪塔など20基ほどが並ぶ。 このうちの1基からは、新田義貞の祖父基氏の法名「沙弥道義」の銘が確認されている。 |
円福寺が建立された由良郷には、新田政義が構えた台源氏館があった。 新田義貞は台源氏館で誕生したのだと伝えられている。 |
群馬県太田市別所町599 |
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