大量の火縄銃(鉄砲)を使用した織田信長 |
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火縄銃(鉄砲)は、1543年(天文12年)に大隅国の種子島に伝来したとされている(近年ではそれ以前に持ち込まれていたという説が有力。)。 その鉄砲が大量に使用されたのが1575年(天正3年)の長篠・設楽原の戦い。 5月18日、信長軍3万と徳川家康軍8千は、武田勝頼1万5千が包囲する長篠城の手前の設楽原に着陣。 信長は、小川・連吾川を堀に見立て、三重の土塁に馬防柵を築いて、武田軍を迎え撃つ作戦をとる。 一方、武田勝頼は重鎮たちに撤退を進言されていたが、戦うことを決定し、長篠城の押さえに三千を残して設楽原へ。 5月20日、信長は家康の家臣・酒井忠次に長篠城包囲の要である鳶ヶ巣山砦の奇襲を命じ、翌朝、忠次は鳶ヶ巣山砦を襲撃。 この攻撃で鳶ヶ巣山砦を守備していた武田信玄の異母弟河窪信実をはじめとする多くの武将が討死。 攻撃を緩めない忠次は、長篠城の西岸の有海村に駐留していた武田の支軍も撃ち払っている。 鳶ヶ巣山砦の大勢が決すると・・・ 設楽原に進んでいた武田本隊が織田・徳川軍に攻撃を開始。 早朝から始まった戦いは、昼過ぎまで続き、織田・徳川連合軍の勝利に終わった。 |
設楽原の戦い〜信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次〜 |
長篠・設楽原の戦いに織田信長が準備した鉄砲は3000挺とも。 信長は鉄砲部隊を3隊に分け、順番に射撃させることで、発射まで30秒から1分かかるといわれる火縄銃の連射を可能にしたといわれる。 ただ、鉄砲の数や三段撃ちについては諸説あって、実際がどのような戦いであったのかは結論は出ていないらしい。 |
戦国最強といわれた武田の騎馬隊。 長篠・設楽原の戦いでは、馬防柵に阻まれ、織田・徳川連合軍の三段撃ちによって殲滅されたといわれている。 信長は、武田軍は馬一筋に突入してくるから、柵などの構築に念を入れるよう命令を出していたらしい。 ただ、近年の研究では、武田の騎馬隊の存在を否定する説も出されている。 |
酒井忠次の奇襲が奇襲が成功したことにより、長篠城に籠城していた奥平貞昌(信昌)も戦いに加わっている。 |
鳥居強右衛門〜命を懸けて絶体絶命の長篠城を救った足軽〜 |
設楽原古戦場には、信長が築かせた馬防柵が再現されている。 |
信玄塚は、長篠・設楽原の戦いでの戦死者が葬られたという塚。 大塚と小塚があって、大塚に武田軍の戦死者、小塚に織田・徳川軍の戦死者が弔われているのだという。 |
愛知県新城市長篠 JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩10分 |
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