中世歴史めぐり

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



榊原康政の檄文
羽柴秀吉激怒
〜小牧・長久手の戦い〜


編集:yoritomo-japan.com








榊原康政


 小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉を非難する檄文を書いたという榊原康政。


 その内容は、本能寺の変後、織田信長の子たちにとった裏切りを非難するものだった・・・

 「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。

 しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。

 その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり」

 というもの。


 これに激怒した秀吉は・・・

 「康政の首をとったものには10万石を与える」

 という触れを出したのだという。




〜織田信孝〜

織田信孝の墓
リンクボタン織田信孝の墓
(愛知県美浜町:野間大坊)

 織田信孝は、柴田勝家と結んで秀吉に敵対したため、賤ケ岳の戦い後、尾張国で自刃させられた。

 母と娘は磔にされたのだという。

 野間大坊は、源頼朝の父義朝の菩提寺。

 義朝の墓の周囲には、平清盛の継母池禅尼や織田信孝の墓が並んでいる。 



〜源家康〜

 家康は新田義重を祖とする源氏を称していた。


リンクボタン元康から家康に改名・松平から徳川に改姓





〜和睦の使者となった康政〜

 その後、秀吉と家康は和睦。

 秀吉は使者として康政を指名したのだという。

 康政が上京すると秀吉は・・・

 「敵を挑発するための檄文はあっぱれであった。

 そなたのような家臣をもつ家康殿がうらやましい。

 わしもそなたを小平太と呼んでよいか」

 と言って褒めたたえ、従五位下・式部大輔の官位を贈り、祝宴まで開いたのだとか。



徳川四天王


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