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小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉を非難する檄文を書いたという榊原康政。 その内容は、本能寺の変後、織田信長の子たちにとった裏切りを非難するものだった・・・ 「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。 しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。 その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり」 というもの。 これに激怒した秀吉は・・・ 「康政の首をとったものには10万石を与える」 という触れを出したのだという。 |
織田信孝は、柴田勝家と結んで秀吉に敵対したため、賤ケ岳の戦い後、尾張国で自刃させられた。 母と娘は磔にされたのだという。 野間大坊は、源頼朝の父義朝の菩提寺。 義朝の墓の周囲には、平清盛の継母池禅尼や織田信孝の墓が並んでいる。 |
家康は新田義重を祖とする源氏を称していた。 |
元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
その後、秀吉と家康は和睦。 秀吉は使者として康政を指名したのだという。 康政が上京すると秀吉は・・・ 「敵を挑発するための檄文はあっぱれであった。 そなたのような家臣をもつ家康殿がうらやましい。 わしもそなたを小平太と呼んでよいか」 と言って褒めたたえ、従五位下・式部大輔の官位を贈り、祝宴まで開いたのだとか。 |
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