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大徳寺の境内にある平康頼の塔。 康頼は平保盛(清盛の甥)の家人。 1167年(仁安元年)、目代として尾張国に赴任した折、平治の乱に敗れ、尾張国野間で最期を遂げた源義朝の墓を修理し、水田を寄進して小堂を建てて供養したことで、武士の鑑として後白河上皇に好印象を与え、上皇の近習となっている。 今様を好んだ上皇の門弟だったことでも知られている。 |
『平家物語』によると、平康頼は、1177年(安元3年)、鹿ケ谷の陰謀に加わり、藤原成経、俊寛僧都とともに薩摩国鬼界ヶ島に流罪となり、流される途中で出家し「性照」と名乗った。 熊野権現の信者だった成経と康頼は、鬼界ヶ島が熊野の那智山に似ていたことから「那智のお山」と名付け、毎日、都に帰れるよう祈っていた。 あるとき康頼は、卒塔婆を海に流すことを思いつき、望郷の歌を記して流し続けた。 その数は千本に達し、そのうちの一本が安芸国厳島に打ち上げられた。 その卒塔婆を康頼に縁のある僧が拾い、康頼の老母・妻子のもとに届けられる。 そのことが後白河法皇の知るところとなり、重盛、清盛にも伝えられた。 感じ入った清盛は、高倉天皇の子を懐妊した娘徳子が体調を崩していたこともあって、1178年(治承2年)、康頼と成経を赦免したという。 |
※ | 帰京後、康頼は、東山の雙林寺で仏教説話集『宝物集』を著している。 |
源義朝の墓 (野間大坊) |
康頼の供養塔 (野間大坊) |
1186年(文治2年)、源頼朝は、父義朝の墓を供養した功績に応えて、平康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司(ほうし)に任命している。 1220年(承久2年)頃、阿波国で没。 源義朝の墓がある愛知県美浜町の野間大坊には康頼の供養塔が建てられている。 |
※ | 保司は天領を管理する在庁官人。 |
大徳寺は、1315年(正和4年)創建の臨済宗大徳寺派の大本山。 戦国武将から信仰され、境内には多くの塔頭が建ち並ぶ。 |
京都市北区紫野大徳寺町53 JR京都駅から市バス「大徳寺」下車。 |
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