石橋山の戦いで、源頼朝の命により先陣を務めた佐奈田与一義忠は、大庭景親の弟俣野景久と戦います。 いったんは、景久を組み伏せた義忠でしたが、刀を抜くことができず、 景久を助けに来た長尾定景に討たれてしまいました。 敵将を討ち取った際に、刀を拭わずに鞘に差したため、血のりで抜くことができなかったのだといいます。 義忠が討ち取られた場所は「ねじり畑」と呼ばれていますが、この畑の作物は、全て「ねじれてしまう」という言い伝えが残されているそうです。 主人義忠が討死すると、郎党の文三家康は、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、稲毛重成の手勢によって討たれと伝えられています。 |
佐奈田霊社 (小田原市・石橋山) |
文三堂 (小田原市・石橋山) |
のちに義忠が討死した場所には「与一塚」が建てられ、義忠を神霊とする佐奈田霊社が建立されました。 義忠は「戦いの最中にタンがからみ、助けを呼ぶことができず、それが原因で討ち取られてしまった」という伝説から、咳の神様として親しまれています。 1190年(建久元年)正月20日、二所詣でに出掛けた頼朝は、途中、石橋山の義忠と文三の墓に詣でて涙を流したといいます。 |
天徳寺の与一廟 真田尊 (平塚市) |
義忠の菩提所 証菩提寺 (横浜市栄区) |
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