鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



歴史めぐり源頼朝
〜法華経に救われた長尾定景〜








 長尾氏は、鎌倉権五郎景政を祖とする一族。

 景弘のときに相模国鎌倉郡長尾庄に住み、「長尾氏」を名乗ったといわれています。

 景弘の子定景は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には大庭景親に味方し、石橋山の戦いでは、佐奈田与一義忠を討ち取るという活躍をしています。

 しかし、態勢を立て直し鎌倉入りを果たした頼朝が、富士川の戦いで平家軍を敗走させると、大庭景親らとともに降伏しました。


長尾御霊神社
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(横浜市戸塚区・長尾城址)


石橋山古戦場(小田原市)
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(小田原市)
平家越の碑(富士市)
リンクボタン平家越の碑
(富士市)


 頼朝定景の処分を、石橋山定景に討たれた佐奈田与一義忠の父岡崎義実に任せますが、義実は慈悲深い者であったので、定景を殺すことができず、ただ囚人として預かっている日々を送っていました。

 一方の定景は、囚人となって以来、毎日法華経の転読を怠らなかったといいます。

 1181年(治承5年)7月5日、義実は、「嫁のお告げがあった」として頼朝を訪ねます。

 義実が言うには、

 「定景は息子の敵ですので、殺さなければ気がすまない思いでしたが、毎日、法華経を読んでいる声を聞くうちに、怨念も消えてゆきました。

 もし、信仰の厚い定景を誅すれば、かえって義忠の冥土での支障になりかねませんので、許してやりたいと思います」

 ということでした。

 法華経を信仰していた頼朝は、これに賛成して定景の命を助けることにしたといいます。


長尾定景一族の墓
リンクボタン長尾定景一族の墓
(鎌倉市・久成寺)




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