長尾氏は、鎌倉権五郎景政を祖とする一族。 景弘のときに相模国鎌倉郡長尾庄に住み、「長尾氏」を名乗ったといわれています。 景弘の子定景は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には大庭景親に味方し、石橋山の戦いでは、佐奈田与一義忠を討ち取るという活躍をしています。 しかし、態勢を立て直し鎌倉入りを果たした頼朝が、富士川の戦いで平家軍を敗走させると、大庭景親らとともに降伏しました。 |
石橋山古戦場 (小田原市) |
平家越の碑 (富士市) |
頼朝は定景の処分を、石橋山で定景に討たれた佐奈田与一義忠の父岡崎義実に任せますが、義実は慈悲深い者であったので、定景を殺すことができず、ただ囚人として預かっている日々を送っていました。 一方の定景は、囚人となって以来、毎日法華経の転読を怠らなかったといいます。 1181年(治承5年)7月5日、義実は、「嫁のお告げがあった」として頼朝を訪ねます。 義実が言うには、 「定景は息子の敵ですので、殺さなければ気がすまない思いでしたが、毎日、法華経を読んでいる声を聞くうちに、怨念も消えてゆきました。 もし、信仰の厚い定景を誅すれば、かえって義忠の冥土での支障になりかねませんので、許してやりたいと思います」 ということでした。 法華経を信仰していた頼朝は、これに賛成して定景の命を助けることにしたといいます。 |
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