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伊東祐親は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。 1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める(参考:蛭ヶ小島)。 1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。 義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山(葉山町))。 |
※ | 三浦義澄は伊東祐親の娘を妻としていた。 |
※ | 北条時政も祐親の娘を妻とし、政子・宗時・義時の母は祐親の娘とも・・・ |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
伊東祐親像が建てられている物見塚公園は、伊東祐親の館跡と伝えれている地。 |
伊東氏は伊豆国の伊東荘を領していた工藤氏の一族。 伊東祐親の祖父工藤祐隆は、嫡男の祐家が早世すると後妻の連れ子(娘)との間にもうけた祐継を嫡子として伊東荘を与え、祐家の子祐親には次男として河津荘を与えた。 これを不満に思った祐親は、祐継が亡くなると、その子祐経(工藤)の所領を横領する。 |
工藤祐隆 |
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『曾我物語』によれば、1176年(安元2年)、伊豆国に流されていた源頼朝を慰めるための「狩猟」が催された。 その帰路、祐親と子の祐泰が、所領を奪われた工藤祐経の兵に襲われ、祐泰が命を落とした。 のちの1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りで起こった「曽我兄弟の仇討ち」は、このとき殺された祐泰の子十郎祐成と五郎時致が親の仇として工藤祐経を討ち取った事件。 |
報復の連鎖〜曽我兄弟の仇討ち〜(okadoのブログ) |
源頼朝を慰めるための「狩猟」では、余興で相撲が行われている。 相撲の名手といわれた俣野景久は21連勝。 最後の挑戦者は伊東祐親の子で力自慢の河津祐泰。 河津祐泰は、連勝の俣野景久を、のちに「河津掛」と呼ばれる技で破ったのだという。 |
東林寺 (伊東家の菩提寺) |
葛見神社 (伊東家の守護神) |
東林寺には、河津祐泰と曾我兄弟の墓が建てられている。 |
祐親の三女八重姫は、父祐親が大番役として上洛している間、伊豆国に流されていた源頼朝と恋仲となり、男子を出産した(千鶴丸と名付けられたという。)。 しかし、大番役の任を終え伊豆国へ戻った祐親は激怒し、三歳の千鶴丸を川底に投げ捨てて殺害。 八重姫を頼朝から取り戻し江間小四郎に嫁がせた。 さらに頼朝も討とうと計画したが、祐親の次男祐清が頼朝に知らせたため、頼朝は伊豆山権現に逃れた(1175年(安元元年))。 その後、頼朝は北条時政の娘政子と結ばれるが、それを知った八重姫は入水したのだと伝えられている(参考:真珠院(伊豆の国市))。 |
※ | 北条時政の子義時も江間小四郎と呼ばれていたが別人とするのが通説。 |
※ | 祐清は、頼朝の乳母比企尼の三女を妻とし、北条時政が烏帽子親だった。 |
源頼朝が流された地は伊東という説 江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 |
音無神社 (伊東市) |
日暮八幡神社 (伊東市) |
最誓寺 (伊東市) |
八重姫御堂 (伊豆の国市) |
産衣石 (伊東市) |
三島神社 (伊東市) |
源頼朝の一杯水 (熱海市) |
今宮神社 (熱海市) |
静岡県伊東市大原2 JR伊東駅から東海バス下田方面行 内野町下車、徒歩2分。 |
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