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清水八幡宮は、清水冠者と呼ばれていた木曽義高を祀る社。 義高は木曽義仲の嫡男。 |
義高の母は、信濃国木曽谷の豪族中原兼遠の娘と推定されている(巴御前という説も)。 父の義仲は、兼遠に育てられた。 |
1183年(寿永2年)3月、父の義仲が源頼朝と対立した際、義高を人質として鎌倉へ差し出すことで和睦が成立。 名目上、義高は、頼朝の娘大姫の許嫁として鎌倉へ送られた。 義高は11歳で大姫は6歳の頃だったと言われている。 大姫は義高によく懐いていたというが・・・ 翌1184年(寿永3年)、頼朝は弟の範頼と義経に義仲討伐を命じ、正月20日、義仲を近江国粟津で滅ぼした。 そして、4月には義高も殺すことを決定。 その話を聞いた大姫は義高に女装をさせて鎌倉を脱出させるが、4月26日、追手の藤内光澄によって入間河原で殺害された(享年12)。 木曽義高の誅殺 |
※ | 義高は、鎌倉街道を祖父義賢ゆかり大蔵、父義仲を救った畠山重能ゆかりの菅谷方面を目指していたのだという。 |
※ | 清水八幡宮の石祠には鎌形に向かっていたことが刻まれているらしい(参考:鎌形八幡神社)。 |
※ | 奥州平泉の藤原秀衡を頼ろうとしていたのだという説も。 |
義高を討った藤内光澄は源頼朝の側近堀親家の郎党。 鎌倉へ戻った藤内光澄の報告を漏れ聞いた大姫は、義高の死を知り、嘆き悲しみ、水さえも口にしないほど衰弱。 6月27日、北条政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した光澄が原因として頼朝に迫り、梟首させたと伝えられている。 木曽義高の誅殺 |
言い伝えによると・・・、 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、大姫の母・北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられた。 これには、畠山重忠(重能の子)らの進言もあったのだという。 社は政子によって手厚く保護され、政子自らも参拝したのだと伝えられている。 しかし、1402年(応永9年)の大洪水で流失。 成円寺に移されていたが、明治初期に成円寺が廃寺となり、現在地に移された。 現在の建物は、1959年(昭和34年)に再建されたもので、江戸末期に発見された永享2年(1430年)の銘のある石祠が安置されているという。 石祠には義高の事跡が彫られているのだとか・・・ |
鎌倉の常楽寺裏山にある木曽塚は、木曽義高の墓と伝えられている。 |
影隠地蔵は、源頼朝の追手から逃れる木曽義高が、一時的に身を隠したという地蔵尊。 |
毎年5月のゴールデンウィーク期間中、入間川の河川敷には義高の供養と子供たちの健康と成長を祈念して鯉のぼりが掲揚される。 |
埼玉県狭山市入間川3−35−9 西武鉄道新宿線狭山市駅から徒歩15分 |
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